幽霊と伝言
工場の中を見回したリショーは、転がっていたバケツを一つ回収すると奥にある汲み上げ式ポンプを使って水を中に入れた。念のため手を入れると、井戸水らしい気持ちよく冷えた温度が肌に伝わる。
「それをどうなさるんですか?」
「決まってんだろ」
チサトの問いに対してリショーは行動で返答することにした。寝転がっている男のすぐ傍まで戻って、バケツを思い切り振りかぶる。中の水は重力に従って落下し、殆ど全て男の顔にかかった。一瞬の沈黙のあと、男が悲鳴を上げて飛び起きる。両手を振り回して意味のない言葉を喚く様子からすると、どこかで溺れる夢でも見たのかもしれなかった。リショーはバケツを傍に放り出して男に話しかける。
「起きたか?」
「はっ?」
男は顔を両手で擦りながら、呆気に取られた表情でリショーを見た。状況が全く飲み込めていないのだろう。だがリショーは構わず話を続ける。
「キンノさん、気持ちよく酔っ払ってたところ悪いけど、ちょっと話聞かせてくれよ」
「話?」
「あんたの親父さんが亡くなった件だよ」
そう告げると、キンノ・マサトシは一時的に失っていた記憶を取り戻したようだった。「あぁっ!」と叫んで二人を交互に指さす。
「あんたら! 人の工場で何をしてる!」
「その話はもう一回終わっただろ」
「……終わったか?」
「終わったよ。覚えてないのか? 親父さんのことについて是非とも聞いて欲しいとこがある、って言った途端に寝ちまったのはそっちだろ」
恐らく記憶が曖昧であろうことを利用して、リショーは相手を言いくるめる。マサトシは首を傾げていたものの、やがて「そうだったかな……」と呟いた。
「うん……そうだったかもしれない」
「思い出してくれたようで何よりだ。もう一度自己紹介したほうがいいか?」
「あ、あぁ……。すまないが、ちっとも覚えていなくてね」
男が申し訳なさそうに言う。すっかりリショーの作り話を真に受けてしまったようだった。
「アタイは探偵をやってるS・リショー。こっちは」
「皇都新聞のサトウ・チサトです。ご無沙汰しています」
「あんたか」
男の鼻頭に皺が寄り、そこから水が一滴滑り落ちる。やはりチサトに対する心証はあまりよくないらしい。だがリショーとしてはそれは正直興味がなかった。マサトシの興味がチサトに移ってしまう前に強引に話を元へ戻す。
「それであんたが聞いて欲しいことってのは何だ?」
「聞いて欲しいこと……、えぇと……。ちょっと待ってくれよ」
ありもしない記憶を探る様子を、リショーは黙って見守る。こちらから話を誘導することも出来るが、それでは決まった情報しか取り出せない。情報というのは本人の中から純粋に絞り出されたものに一番価値がある。長屋の井戸端会議がそうであるように。
男は唸りながら考え込んでいたが、不意に顔を上げた。酒はすっかり抜けたようだが、体に染みついた匂いはまだ取れそうにない。寧ろ水をかけてしまったせいで強くなっているような気すらした。
「そうだ、きっとあのことだ」
「思い出したか?」
「親父の幽霊が出たんだよ」
その言葉にリショーは思わず「はぁ?」と返してしまった。予期していたどの言葉からも一番遠いものだった。
「幽霊って、あの怨めしや~って幽霊か?」
「あぁそうだよ。それ以外の幽霊がいるなら見てみたいね」
男は床に胡座をかいて姿勢を正す。
「親父が死んだ後に、それを知らなかった古い知り合いがカラクリで伝言を残したんだよ。そうしたら親父から返事が残ってんだと」
「死んだ人間が返事をしたってことか?」
「あぁそうだ」
リショーは眉を寄せて短い髪を少し指で掻いた。その様子を見て男は不満そうな顔をする。
「信じてないな? 俺だって信じちゃいなかったよ。だからわざわざその人のところまで行って保存されていた伝言を聞かせてもらったんだ。はっきりと親父の声で「悪いがもう会えない」って言ってたんだからな」
「本当にその伝言は、親父さんが亡くなった後のものだったのか?」
「間違いない。伝言を聞くときは最初に自動音声で記録された時間が流れるだろ? 親父が亡くなった翌々日の日付だったよ」
男は鼻を鳴らし、掌底で目を拭う仕草をした。泣いているのかも知れないが、顔がまだ濡れているのでよくわからない。
「俺は思ったね。これぁ親父が無念のあまりカラクリを通して話してるんだと。だからそのまま四条界のところに乗り込んで、あのクソッタレを呼び出してやったんだ」
クソッタレというのはアコヤ社長のことだろう。それ以外の該当者はこれまでの話から出てきていない。
「あの野郎、俺の話を聞いたら真っ青になっちまって。妙に狼狽えてやがったよ。親父の幽霊に殺されるとでも思ったのかもしれねぇな。どんな金持ちでもどんな豪傑でも幽霊には敵いやしねぇよ」
そのまま感極まってしまったのか、声を詰まらせて泣き出したマサトシを傍目に、リショーはチサトの方に視線を向けた。
「どう思う?」
「アコヤ社長は幽霊に殺されるのを怖れていたということなのでしょうか」
「そういうタイプだったか?」
「さぁ……ですが経営者というのは意外と験担ぎをすると言いますし、迷信深いところがあったのかもしれません」
「なら次はその裏取りでもしてみるか。誰かが幽霊騒ぎを利用して……ってことも考えられるしな」
リショーはそう言うと、泣いている男の傍にしゃがみ込んだ。
「親父さんはさぞ無念だっただろうな」
「わかってくれるかい、探偵さん」
「わかるよ。一国一城の主がその城を奪われたんだ。アタイだったら相手を呪い殺してやるね」
「そうだとも、そうだとも。親父は本当にこの工場を大事にしてたんだ」
「まぁ、そんなに泣いちゃ体に毒だ。一度家に帰ってゆっくり休むんだね。あんたが体を壊しちゃ、親父さんも悲しむってもんだ」
男は何度も頷きながら立ち上がった。濡れた体で胡座をかいていたために腰から下がすっかり泥まみれになってしまっているが、それすら気にならない様子で工場から出て行く。何に感謝しているのかはわからないが、出て行く時に「ありがとう」と繰り返し言っていたことから、一度静まりかえっていた酔いが戻ってしまったのかも知れなかった。
男の気配が遠くなると、リショーはチサトと共に工場の外へと出る。外の空気が清々しく体の中を通っていくのを感じた。
「換気してねぇ工場に酔っ払いってのは、あまりよろしくない組み合わせだったな」
「そんなことは仰らず。次は四条界に参りましょう」
「そこの繋ぎはあんたに任せて良いのか?」
「えぇ、恐らく問題ないと思います。辻馬車を止めるより歩いた方が早いですね。こちらです」
率先して歩き出したチサトの後をリショーは素直についていく。頭の中では妙にさっきの「幽霊」の話が気に掛かっていた。
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