第五幕 被害者と容疑者

紫蘇とソーダ

 不可能とは文字通り可能ではないことを示す。しかしこれまでいくつもの不可能は可能の前に姿を消した。百年前までは遠く離れた場所にいる人間と会話をすることなど、それこそ不可能だったに違いないが、今ではそんな歴史を皆忘れてしまっている。

 不可能カラクリのいくつかも、いずれは可能に変わっていく。リショーはそう考えていたし、そのこと自体に特に反対意見を持っているわけではなかった。そもそも不可能カラクリが存在していたら、それは可能ということになる。簡単に言えば矛盾している。矛盾した存在をリショーは追い求め、探し求め、そしていくつもの溜息と落胆と憤慨を生み出し続けていた。なのに求めることを止められないのは、当世風に言うならば「執着」というものなのかもしれない。


「要するにタイムマシンっていうのは、不可能カラクリの最上位にあるんだよ」

「そういうものですか」


 まだ正午には少し時間があった。空に昇る太陽は柔らかな光を地面に降り注いでいる。昨夜見たガス燈と比べると、あまりに遠慮というものがなかった。

 リショーはそれを一瞥してからグラスを手に取り、中に入っているソーダ水をストローで吸い上げた。細やかな炭酸が実際の水の温度をより低く感じさせる。水の表面には甘いシロップが注がれていたが、リショーは中身をかき混ぜていないため、甘さは今のところ殆ど感じ取れない。

 昼前のデパートの屋上は閑散としていて、本来は子供が乗って遊ぶであろう船の形をした遊具にカラスと鳩が仲良く並んでいるのが見えた。二人が腰を下ろしているのは屋上にいくつも置かれた安っぽいテーブルセットで、しかしそれでも最新の流行であるソーダ水を飲むにはうってつけの場所のように見えた。


「そりゃそうだろ、自由に時代を行き来出来るんだ。機能はいたって単純だが、使い方は無限大。例えば賭け事に使えば、一晩で千円ぐらい稼ぐことだって夢じゃない」

「だからカラクリ論者の方々にも人気があるんですね」

「あまり好きじゃないか?」


 えぇ、と短い肯定を返したチサトは真っ赤に色をつけたソーダ水を飲む。格好は昨日と殆ど同じ矢絣に袴姿。ただし色だけは少し違っている。


「そんなの出来たら新聞が売れなくなりますから」

「確かにそれはそうだ。新聞社にとっては憎き敵になる。……それ何味なんだ?」

「紫蘇ですよ。お飲みになりますか?」


 そう言ってチサトがグラスをリショーに差し出す。ストローがグラスの中で転がって、先端についた口紅の色がソーダ水の赤色と同じに見えた。リショーはそれを見て、昨日の夜に家で必死に落とした化粧のことを思い出した。そして昨日のチサトの姿も。


「いいよ、別に。味が気になっただけだ」

「意外と美味しいですよ。夏頃に売れば流行りそうです」


 断られたことに気を悪くした様子もなく、チサトは再びストローを咥えた。


「タイムマシンには色々な「草案」がありますね。部屋の中にある年号が刻まれたダイヤルを回すだとか、ハコネのカラクリ細工の大きなものを決まった手順で動かせば作動するだとか。どのような形をしているとお考えですか?」

「少なくともハコネ細工はナンセンスだな。大体、開けた箱を戻す人間がいない」

「そこについては同意します。私が考えるに、タイムマシンは電話室の形をしているのではないかと」


 へぇ、とリショーは笑った。


「面白そうだな。話してみなよ」

「時代を超えて移動するカラクリは非常に大きな装置を必要とするのではないでしょうか。そして起動するにもいくつかの手順が必要です。うっかり起動に失敗して、神武の御前に飛ばされては敵いません」

「その理屈だと巨大な電話室が必要だな」

「いいえ。電話室そのものは単なる移動用のもの。どこかにある装置に電話で連絡をするのです。私たちがカラクリに命令をするように」


 チサトは真剣そのものだった。


「神社にあった電話室、あれこそが実はタイムマシンだったと考えられないでしょうか」

「じゃあアタイたちはタイムマシンに乗っていたってわけか?」

「おかしくはない筈です。起動用番号を知っていなければ、ただの電話室でしかありませんもの」


 リショーは少し首を傾げるようにして、自分の頭の中のいくつかの情報をつなぎ合わせた。


「ヨウガ・タツロウは電話室に押し込められた。犯人はその電話室で誰かに連絡を取ろうとしていた。アタイたちは昨日そう推理した。でももし犯人が電話を掛けようとした相手が人間ではなくてタイムマシンだったら……」


 なぜ犯人が電話室に死体を入れようとしていたのか。タイムマシンで移動するためだったのではないか。そう考えると辻褄が合うような気がするし、しかしどこか出来過ぎた考えにも思えた。大体、それならわざと警察を呼ぶ真似をしなくても良いし、リショーたちに警告をする必要すらないだろう。


「どうする? もう一度神社に行ってみるか?」

「あまりおすすめは出来ませんね。昨日の今日ですし、まだ警察もいるでしょうから」

「まぁ行ったところで電話室が本当にタイムマシンかどうかなんて調べられないだろうしな。となると、あと調べられるところは……」


 リショーはグラスの中の氷に指を軽く置き、中をかき混ぜるように回す。


「アコヤ・セイゾウが社長を務めている「四条界」、それと四条界に乗っ取られた会社だな。あんた、調べてたんだから知ってるだろ?」

「いくつかありますが」

「アコヤ社長が殺し屋に狙われてるって零したのが二ヶ月前なんだろ? ってことはそのあたりで買収された会社とかあるんじゃないか?」

「なるほど。そういう意味ですと丁度うってつけの会社があります。ニホンバシにある「金線組」です」

「導線の会社か?」

「えぇ。三ヶ月前に強引な手段で買収されて、その直後に社長だった方が亡くなっています。その息子さんがうちの会社に訴えを持ってきたのが、調査のきっかけだったんです」

「じゃあその息子とは面識があるんだな? 話は聞けるか?」

「えぇ。……あ、いえ」


 しかしチサトは少しそこでためらうように口を噤んだ。


「どうした?」

「結局その記事は表には出ず仕舞い。私も表立って調査することも出来ていません。そのような状態で息子さんに会いに行くのは少々気が重いと言いますか」

「そんなこと言ってる場合かよ。新聞記者のくせに繊細なんだな」

「別にそんなつもりはないですけど」


 口ではそう言いながらも、チサトの表情は晴れない。しかしリショーはそれに同情をしてやるほど優しくはなかった。探偵という稼業は新聞記者よりもよほど嫌われている。浮気調査のつもりで向かった家で、犬をけしかけられたことなども珍しくはない。そんなことをいちいち気にしていたら、こんな稼業は続けられないとリショーは思っていた。


「四条界はどこにあるんだ?」

「キョウバシです。といってもニホンバシとの境にありますから、金線組からはすぐの場所ですね」

「じゃあ最初は金線組に行こう。それから四条会だな。こういうのは下の方から攻めるのがいい」

「……わかりました」


 溜息交じりにチサトは言って、そしてグラスの中身を一気に飲み干した。そういう仕草は男らしさが混じっている。リショーはそんなことを思いながら、相手よりはやや女らしくソーダを飲みきった。

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