靴と街灯
「……リショーさんが問題なければ」
「アタイに主導権があったとは初耳だな。よし、交渉成立だ。調査の費用はいついただけばいい?」
椅子から立ち上がったリショーは、まだ些か痛みを訴える足を無理矢理立たせながら相手に尋ねた。こんな虚勢に何の意味もないことはわかっている。しかしリショーは、アヤコがそういった態度を馬鹿にはしないだろうという一種の確信のようなものがあった。
案の定、アヤコは一瞬だけ心配そうな顔をしたものの、すぐにそれを隠した。
「銀行に直接振り込んでもよろしいですし、後日お渡しする形でも良いですわ」
「なら、明日か明後日にでも取りに行くよ。生憎、銀行ってやつはあまり信用してなくてね。貴族銀行だっていつ潰れるかわかったもんじゃない」
「まぁ」
アヤコは信じられないような顔をした。
「変わっていますね」
「そうでもないさ」
「家に取りに来ていただいて結構ですよ。場所は?」
「誰かに聞けばわかるだろ」
「それでは、こちらを」
どうぞ、と差し出されたのは一枚の名刺だった。角はしっかりと切り立っていて、触れれば皮膚くらいは容易に裂いてしまいそうだった。表にはアヤコの名前とシオザキ財閥の紋が印字されている。
「これを持って執事に頼めば、私のところまで案内してくれますから」
「なるほど。通行証ってわけか」
リショーはハンカチでそれを丁寧に包んだ。金を受け取るまでは、これが担保のようなものである。間違ってもどこかの側溝に落とすわけにはいかない。
「じゃあアタイたちはそろそろ失礼するよ。これ以上、女主人を引き留めてたら文句を言われそうだ」
「気にすることはありませんわ。でもお連れ様は外の空気を吸ったほうがよろしいでしょうね」
「同感だ」
短く挨拶をして、リショーたちはアヤコに背を向けた。いつの間にかホールには人の数が増えていて、話し声も随分と賑やかになっていた。壁際のほうでは最初に話しかけてきた男爵が、ワインですっかり出来上がっていて、迷惑そうにしている淑女を相手に何かをまくしたてている様子が見えた。
「男爵様でも酔っ払うと、その辺の親父と同じだな」
周囲に聞こえないようにリショーが言うと、チサトが僅かに笑った。
「人に因りますよ」
「そんなん言ったら何でもそうだろ」
館の外に出ると、夜の帳がすっかり落ちきったために街灯が明るく輝いて見えた。室内の照明も十分明るかったが、やはり夜空の下で見る明かりに勝るものはない。そのまま道路へと出て反対側へと移動したリショーは、そこで漸く大きな溜息をついた。
「あー、柄にもないことするもんじゃないな」
「大丈夫ですか?」
「今更心配しても遅い」
その言葉にチサトが何か言い返そうと口を開いたが、リショーはそれを手で止めた。
「ちょっと待ってくれ。もうこれ以上この靴履いてたら、骨ごとボキリと行きそうだ」
親指と小指と足の裏が、やすりで削ったように痛い。身を屈めて両足の踵に手をかけると、勢いよく靴を脱いだ。黒い靴下のまま地面に足をつけると、靴によって狭められていた血管に一気に血液が流れ出すのを感じた。
「……まさか、靴下のまま帰るつもりじゃないでしょうね」
「途中で草履でも買うよ。確か向こうの角に売ってたはずだ」
「そこまでどうするんですか」
チサトが呆れかえったような顔で言うので、リショーは眉間に皺を寄せた。
「別にあんたには関係ないだろ。それともあんたがこの靴履くか?」
「爪先を切り落とさないと無理ですね。貴女がもう少し小柄なら抱えていけるんですが」
「願い下げだ」
靴を指に引っかけてリショーは歩き出した。歩道には石などがいくつも落ちているが、痛みで半ば麻痺をした足裏には大した影響はない。この靴下は買い取りになるだろうな、と貸衣装屋の主人を脳裏に思い浮かべる。また山猿呼ばわりされるだろうが、この際我慢することにした。
「財閥令嬢とお近づきになれるとは思わなかったな」
「そうですね。しかし、随分と柔軟な考えをされる方のようです」
「財閥の人間ってのは頭でっかちだと思ってたけど、とんだ誤算だな」
歩道の大きな亀裂を軽く飛び越える。
「明日からどうする? アコヤ社長の近辺を調べるか。それともタイムマシンを探すか」
「一度、情報を整理してから動いたほうが良いと思います。あのご令嬢は、我々が成果を出せないことを許しはしないでしょうから」
「脅すなよ」
「事実ですよ。もし私たちがこのまま何も出来ないうちに、アコヤ社長の死が知られたとしましょう。そうなれば彼女にとって私たちは邪魔者です。口封じをする可能性は高い」
真剣な眼差しで、どこか陰鬱な口調でチサトは言った。リショーは指先で靴を回すと「そうだろうな」と返す。
「何しろアタイたちは、新聞社への口止めを無視して動いてるって認識されてるんだ。次はアヤコとの契約のことを誰かに話すかも知れないって思われるかもな」
「知っていたのになぜ引き受けたんですか」
驚いたようにチサトが問う。しかしリショーは笑顔のままで続けた。
「あの依頼を引き受けなかったところで、アタイたちが調査をやめるわけじゃないだろ。だったら手駒は多い方がいい」
「手駒にするにはあまり良い駒ではないかと」
「探偵なんてこんなもんだよ」
新聞記者をそんな言葉で黙らせ、リショーは靴を再び回した。街灯の光を浴びながら靴はなだらかな弧を描く。探偵に相応しい歩きやすい靴を手に入れるまで、まだ道のりは遠かった。
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