取引と交渉
その台詞には特に力は込められていなかった。たおやかな口調に淡い声量。それなのに一種の凄みのようなものがあった。
きっと各新聞社に「少々のお願い」をした時も、こんな具合だったのだろう。リショーはそう思いながらチサトを見る。
「どうする?」
「……わかっているでしょう。恐らくこちらには碌な選択肢がありません」
どこかうんざりした様子でチサトは呟いた。アヤコは再び小さく笑うと、置いたままだったグラスを手に取って中のワインを一口飲む。
「そう警戒なさらなくてもいいでしょう。きっと悪い話ではない筈です」
「どうでしょうね。少なくとも貴女にとっては良い話なんでしょう」
「それはそうです。己にとって悪い話を他人に持ちかけるだなんて、そんな不義理で破滅的なことはないでしょう?」
「特に財閥の方々にとってはね」
「おい」
リショーは段々と口調が剣呑になっていくチサトを止めた。
「ちょっとは落ち着けよ。ここで決闘しようってんじゃねぇんだから」
「わかってますよ」
どうやらチサトはアヤコのことが気に入らないようだった。というよりは元々シオザキ財閥に対して敵意みたいなものがあって、そのうちの一人に会ったことで引き出されたとも考えられた。
「私がお願いしたいのは、アコヤ社長が誰に殺されたかということです」
二人の会話の流れなど気にも留めず、アヤコが口を開いた。その内容にリショーは目を見開く。
「はぁ?」
「こうして探りを入れていると言うことは、アコヤ社長がどのように亡くなったかすでにご存じなのでしょう? 誰があんなことをしたのか調べていただきたいのです」
「ちょっと待て。なんでそんなことアタイたちに頼むんだ? あんた、この事件を隠蔽したいんじゃないのかよ」
驚いて問い返したリショーだったが、アヤコはそれよりも数倍驚いた顔をした。
「まさか。財閥が事件を隠そうとしたのは、彼の死が要らない憶測を呼んでしまうのを恐れただけです。シオザキの評判にも関わりますから。大体、ずっと隠せるものでもないでしょう」
「……まぁ、それは確かに」
「事件を隠すには限界がありますが、事が露呈する前に犯人を見つけてしまえば、シオザキとしては面子が保てるのです」
「でもアタイたちじゃなくたって、財閥にそういう専門家とかいないのか? それこそ警察にも伝手があるだろうし」
リショーの純粋な疑問は、アヤコの表情を曇らせた。
「それには父の了承を得ないといけないので」
「それじゃ駄目なのか」
「私がそう言えば、恐らく父は自分で動き始めるか、側近の者に全てを任せようとするでしょう」
グラスの中でワインが揺れる。アヤコの心の中のざわめきを示すかのように。
「父は女が出しゃばることを良しとしないのです。夜会だって、女主人が取り仕切るというのが許せないのでしょう。今まで殆ど出たことがありません」
「……確か、シオザキ・リザエモン氏にはご子息はいなかったと」
チサトの言葉にアヤコが頷いた。
「外に産ませた者も含めて全員女です。父はどうしても息子が欲しかったようですが、遂にそれは叶わなかった」
「四女の産んだ孫息子を、自分の跡継ぎにするという噂がありますが」
「きっとそのうち現実になりますわ。でもそれ自体は仕方のないことです。女が財閥を継ぐなんて考えられないことですから」
ねぇ、とアヤコがリショーに同意を求める。だがリショーが何も言わぬ間に話を切り替えた。
「この件を父任せにしたくないのです。貴方は記事の差し止めにも構わず、此処まで来れた。気概も能力も十分だとお見受けしました」
「……私に犯人を見つけろと?」
チサトは薄笑いを口に浮かべていた。といっても可笑しくて笑っているわけではなく、込み上げた色々な感情のうち、笑みだけが真っ先に口元に出てしまったように見えた。
しばしの沈黙の後、急に窓の外が明るくなった。招待客の幾人かが驚いた声を出す。それに少し遅れるようにして激しい雨音が窓を打ち始めた。
「アコヤ社長が亡くなった状況から考えて、私はこの事件にはタイムマシンが関わっていると考えています」
「不可能カラクリと呼ばれるタイムマシンが? それは随分と滑稽な考えですわね」
「そうでしょうか? 私はその考えが正しいと信じて、彼女に助力を仰ぎました」
チサトがリショーを手のひらで示す。
「彼女は探偵です。といっても花魁アリアの娘であることは本当ですけどね」
「まぁ。女性の探偵なんていらっしゃるの。初めて見たわ」
「私たちはタイムマシンがあることを前提として調査をしています。貴女が私たちに犯人捜しを頼むなら、それを念頭に置いていただかないと」
これは宣言だ。リショーは即座に理解した。チサトは自分たちが今まで調べてきた道を崩すつもりがない、不可能カラクリという存在を信じ、あるいは疑いながら調べることを絶対条件としてアヤコと取引をしようとしている。立場としては圧倒的にこちらの分が悪いにも関わらず。
「まぁ」
アヤコはおっとりとした口調で呟いた。驚いているようには見えないし、かといって不愉快な様子でもない。これが地位のある女の余裕というものなのか。リショーは漸く痛みが引いてきた足から手を退けて、彼女の口元に視線を注いだ。綺麗に塗られた紅がゆっくりと動く。
「わかりました、それで結構ですわ」
「いいのか?」
意外に思ったリショーが訊ねる。アヤコは「えぇ」と短く返した。
「こういうことは、私の言うことに唯々諾々と従う方に頼んでも仕方ありませんから」
「確かにあんたにはその手の人間が多そうだ」
「不愉快なことに。……お仕事の報酬ですが、調査とは別に犯人を見つけた場合に上乗せするという形でいかが?」
アヤコは二人に向かって言った。どちらに報酬の話をすれば良いのかわからなかったためだろう。そういう振る舞いは好感が持てた。世の中、何でも男が優先されることが多すぎる。
「いくら出せるんだ?」
「百円だと、ちょっと少ないでしょうか」
リショーは思わず素っ頓狂な声を出しそうになって、慌ててそれを飲み込んだ。金額だけが理由ではない。一円あれば映画を座って見ておつりが来る。それを「少ない」と言ってしまえるほど、相手にとっては大した額ではないことに驚いたためだった。
「お二人なので二百円でいかがでしょうか」
「随分太っ腹だな」
「シオザキ財閥に妙な噂が立てば、それを消すのに一万円ぐらいは簡単に飛んでいきますもの。それを考えれば安いものです」
「犯人を見つけたら?」
「倍の額をお出しします」
リショーはチサトを見た。チサトは金額の大小にはあまり興味がない様子で、しかしその額が自分の労働の対価として妥当かどうか考えている様子だった。だがそのまま数秒経っても何も言わないことに焦れて、リショーは声をかける。
「どうするんだよ」
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