女主人と招待客
「楽しそうなお話をしていますわね、男爵」
銀色のドレスを身に纏った女がワイングラスを片手に、階段の手すりから身を乗り出してこちらを見ていた。シオザキ・アヤコ。この夜会の女主人の登場に、リショーは思わず口を半開きにする。しかしアヤコに笑いかけられると、慌てて顎に力を入れて真面目な表情を作った。
階段から降りてきたアヤコは三人の前に立つと、洗練された仕草で挨拶をする。
「ごめんなさいね。聞き耳を立てるような真似をしてしまって」
「いえ、アヤコ様。こちらこそついおしゃべりに夢中になって」
自分よりも年下の女に対して、男爵は恐縮した様子で頭を下げる。
「あたくし、名前がアヤコでしょう。アコヤ、アコヤと連呼されますと自分が呼ばれているような気分になってしまうのですよ。名前とは不思議なものですね」
「えぇ、えぇ。その通りです」
「……紹介して下さる?」
アヤコがリショーたちを見ながら言うと、男爵は慌てて顔を上げた。大きな体躯に似合わない細々とした動作は、それこそ昔の絡繰人形のようだった。
「こちらは花魁職人のアリア殿のお嬢さんである、リヨ殿。そしてその婚約者の方です」
「まぁ、アリア様の」
低い鼻に少し皺を寄せるようにしてアヤコは破顔した。
「是非一度お目に掛かりたいと思っていますのよ。貴女もカラクリを?」
「多少は。ですが生業にするほどではありません」
「あら、勿体ないこと。せっかく身近に師範となさる方がいらっしゃるのに」
「母は人に何か教えることには不向きなのです。出来の悪い娘が、どうして出来ないのかわからないんでしょう」
あのような環境で育てば、カラクリには嫌でも詳しくなる。しかし今自分で言った通り、リショーには母親ほどの才能がなかった。母親曰く娘のカラクリは「鹿威しを手で動かすようなもの」とのことで、それが意味する正確なところはわからないが、遠回しに才能がないと呆れられていることだけはわかっていた。
「どこも親は厳しいものですわね」
同情的にアヤコは言った。そして優雅な素振りで、立ち尽くしたままの男爵に一瞥を向ける。
「この方々と少々お話がしたいと思いますの。よろしいかしら」
「勿論です。他にも挨拶がありますので」
男はすぐにその場を立ち去った。アヤコは一言とて「席を外せ」とは言っていない。しかしそれをすぐに相手に察知させるのは、流石財閥令嬢にして、この大きな夜会を取り仕切っているだけのことはあった。
そしてまた三人だけになると、アヤコは手に持ったグラスを傍のテーブルへと置いた。
「我々にお話というのは?」
チサトが切り出すと、アヤコは小さく微笑んだ。
「別に大したことではありません。アコヤ社長のことをどうして聞き回っているのかと不思議に思っただけですわ」
「聞き回るなんて、私たちは」
「あまり趣味がよくないことよ。死んだ方の悪評を集めるなんて」
二人が一瞬言葉につまると、その反応が面白いとばかりに女は口元に手を当てて笑った。
「そんなに驚かなくてもよろしいでしょう? アコヤ社長が亡くなったこと、それに関わる不祥事を新聞に書かないようにとお願いしたのは私なのですから」
リショーはその時、ほんの僅かにチサトが顔を歪めたのを見た。気をつけていなければわからない程度のものだったが、苦々しいものが混じっていたのは確かだった。
そもそも今回のリショーへの依頼は、チサトが追っていた不祥事を財閥がもみ消そうと圧力をかけてきたことに起因する。つまりチサトにとっては目の前にいる女に、自分の取材を邪魔されたと言える。
だが幸いにもアヤコのほうはチサトの表情の変化には気がつかなかったようだった。というより、庶民が向ける感情などには元々興味がないようにも見える。
「新世界新聞が最初に少しだけ記事を出したでしょう。あれは止められませんでしたけど、あの時はまだ亡くなったのが誰なのかわかっていませんでしたから。不幸中の幸いというものですわね」
「そしてその後、全ての新聞社に圧力を?」
「あら、そんな恐ろしい言葉を使わないでくださいな。ただ少々お願いをしただけですもの。圧力だなんて、とんでもない」
もしアヤコが本当に「少々のお願い」をしたつもりだったとしても、各新聞社はそれをただのお願いとは受け止めないだろう。無視すれば財閥側からどんな報復を受けるかわかったものではないし、新聞社に出資をしているパトロンたちが手を引いてしまう可能性もある。
「察するに、貴方は新聞社の方ですわね?」
アヤコがチサトを観察しながら言った。
「そちらのお嬢さんを利用して夜会に入り込んだのかしら? 婚約者を名乗るにしては、女性を蔑ろにしすぎですもの」
「……別にそんなつもりは」
「リヨさん」
突然名前を呼ばれたリショーは、戸惑いつつも相手に視線を合わせようとしたが、アヤコの目は足元に向けられていた。
「慣れない靴を履いてお疲れでしょう。そういう場合は殿方に椅子のある場所に連れていってもらうべきですわ」
「こういう場所は、椅子に座ったらいけないのかと思って」
「可愛らしいこと。そちらの椅子を使ってくださいな。遠慮は要りませんから」
階段の影に置かれた椅子を示されたリショーは、礼もそこそこに腰をかける。途端に靴に締め付けられていた足に血が流れる感覚がした。思わず安堵の表情を浮かべてしまったリショーを、アヤコが嬉しそうな眼差しで見る。
「あぁ、よかったわ。倒れられでもしたら心配ですもの。貴方も婚約者を名乗りたいなら、気を配るべきですわね」
「……すみません」
チサトの謝罪がどちらに向けられたものなのか、いまいち判然としなかった。それでもリショーは右足を擦りながら「気にするなよ」と声を掛ける。
もはやアヤコの前では丁寧な口調の振りもあまり意味がなさそうだった。
「それで、どうする? 夜会に入り込んだ新聞記者を守衛に頼んで摘まみ出させるか?」
「あら、どうして?」
「折角新聞社にお願いして記事の差し止めをしたってのに、まだ探られてるのは都合が悪いだろ」
「いいえ、寧ろ感服いたしましたわ」
アヤコは首を左右に振った。
「新聞記者の方がここまで熱心に調べて下さるなんて。ですから追い出すなんて野暮な真似は致しません。寧ろ、出て行かれては困ります」
「何が困るんだよ」
「お願いしたいことがあるからです」
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