挨拶と世辞
周囲が少しだけざわめいた。近くの客が上を仰ぎ見ているのに気がついたリショーたちはそちらへと視線を向ける。せり出した二階に一人の女が立っていた。銀色に輝くシルクのドレスを身に纏い、上等な紫色のショールを腕と肩にかけている。形こそリショーが着ているのと同じバッセルタイプだったが、素材や飾りのために全く別のものにすら見えた。
女は年の頃は三十あたり、黒い髪を伝統的な夜会巻きにして、ダイヤモンドを使ったかんざしを挿している。身の丈はそれほど高くは無いが、長い首と細い手足の均衡が取れた体つきをしていた。赤く塗られた口は大きいが決して下品さは感じられず、寧ろそれを誇りとするように口角を持ち上げているのが印象的だった。しかし低い鼻と一重瞼は口の大きさに比べるとあまりに控えめで、お世辞にも美しいと言える顔立ちではない。だがどういうわけだか彼女の姿には見る者を惹きつける力があった。
「女主人のお出ましですね」
チサトがそう言ったので頷きだけを返す。夜会は女主人が仕切るのが慣例であり、男はそこには姿を現さないことが多い。
「母様は家長が開く夜会だって言ってたけど」
「それはそうです。実際に金を出して人を集めているのは家長のシオザキ・リザエモン。ですが女主人は立てないと格好がつきませんからね。リザエモンには妻がいませんから、あれは長女であるアヤコですよ」
女主人は二階から招待客を見回し、そして口元の笑みを深めた。年には似合わぬ笑窪が頬に浮かぶのがリショーの位置から辛うじて見える。そして女はワイングラスを片手に短い挨拶を述べてから、その手をわずかに宙に掲げた。周囲が一斉に同じ行動を取ったため、リショーは慌ててそれに従う。
「今の乾杯の挨拶なのかよ。わかりづらい」
「上流というのはそういうものなんでしょうね」
余裕を見せるチサトをリショーは軽く睨んだ。
「随分慣れてるな」
「慣れている振りですよ。他の方々から見たら立派な猿真似くらいには見てもらえるかもしれません」
そんなことより、とチサトは話を切り替えた。乾杯の挨拶が済んだため、周囲は好き好きに話を始めている。
「折角入り込めたんです。少しでも多く情報収集しましょう」
「そうだな。でも誰に?」
「大丈夫ですよ。こういう場所には必ず、一人か二人くらいの好奇心旺盛な方がいますからね」
その言葉が終わりきらぬうちに、二人の方へと誰かが「やぁやぁ」と近付いてきた。肥えた体を無理矢理服に押し込めたような壮年の男で、体と同じように大きな四角い顔に口ひげを蓄えている。
「お若い方、シオザキの夜会は初めてかな?」
リショーはすぐに返事をしようとしたが、一瞬思いとどまる。流石にいつもの話し方では都合が悪い。
「えぇ。恥ずかしながら」
可能な限りの女らしい言葉で応じると、男は何度か頷いた。
「何を恥ずかしがることがありますか。誰もが一度は初めてを経験するものですよ。しかし何度も来ていると、初めてかそうでないかはわかるようになる。お二人の初々しい様子から、そうではないかと思った次第でね」
男は口を開けて笑うと、思い出したように言葉を付け足した。
「あぁ、失敬。私はカワハタと言う者だ。いくつか会社を経営していてね。父から男爵家の位を継いだばかりなのだが、その縁もあって財閥に。そちらは?」
「私どもは財閥の関係ではないのです。会社も経営しておりませんし、身分も低い」
正直に答えると、相手は訝しげに眉を寄せた。リショーはそれを観察しながら言葉を続ける。折角向こうから声を掛けてきて、しかも財閥の関係者。こちらに興味を持ってもらう必要がある。
「私は花魁アリアの名代として参りました、娘のリヨと申します」
本名をそのまま言うのは避けたかったため、とっさに違う名前を口にする。それを聞いた相手は少し考え込んだあとに、驚いた表情を浮かべた。
「なんと。まさかアリア殿が招待されていたとは」
「母は忙しく、代わりに私が」
私、という言葉が喉をくすぐる。
「お名前は予てより。まだ私は直接お会いしたことはありませんがね。数々のカラクリを見るにつけ、聞くにつけ、この世には素晴らしい才能があるものだと感心していたのですよ」
図体の大きな男が媚びるような言葉を連ねるのを聞いて、リショーは今更ながらに母親の偉大さを思い知った気分だった。きっとこの場に本人が来ていたなら、この男は更に腰を低くして揉み手をするに違いない。
「こんなに美しいお嬢さんがいるとは知りませんでしたな。我が社も是非、アリア殿とお近づきになりたいものです。招待状はシオザキ家から直接?」
「いいえ」
どう答えれば相手の興味を引けるか。リショーは今まで得た情報を全て頭の中に並べて、そこから一つの言葉を作り出す。
「アコヤ社長から」
「なんですと?」
思った通りと言うべきか、カワハタ男爵は不快そうな表情を浮かべた。
「油断のならない男だ。いつの間にそんな繋ぎを……。リザエモン様ですらお目通りが出来ていないとの噂なのに」
男爵という身分から大体予想はついていたが、どうやらこの男も平民であるアコヤを快くは思っていないらしい。しかしリショーは少々わざとらしいほどにきょとんとした顔をして訊ねた。
「あの、何か?」
「あぁ、いや。失礼」
初対面の、それも若い女の前で思わず毒づいてしまったことに気付いたのか、男爵は咳払いをした。
「そうですか、アコヤ君の。彼も随分手広く商売をしていますからな。まさか十三階に行っているとは思いませんでしたよ」
「どうしても母に来て欲しかったようなので、失礼を詫びようとしたのですが……今日はいらしていないのですね」
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