欺瞞と戯言
「何がって、女だって欺しただろうが」
先ほど自分の口元を覆った手を一瞥する。黒いレースの手袋は男だとわからないように装着していたのだろう。よく考えれば物書きを仕事とする記者が、滑りやすいレースの手袋を愛用するわけがない。
「欺してはいないですよ。どこかで私が女だと言いましたか?」
「言って……、ないな」
「でしょう」
だからといって欺していないことにはならないだろう、とリショーは言いたかったが、それ以上は食い下がらなかった。そもそもそこは大した問題ではない。
「なんで女の格好なんかしてたんだよ」
「そちらのほうが油断される方が多いですよ。ですが、アリアさんには通用しませんでしたね。私が男だと早々に見抜いていたようですから」
リショーはそう言われて母親の言動を思い出した。確かにチサトに茶を出そうとしていたし、それを止めたリショーに「四角四面に物事を見るな」と告げた。あの時は何も思わなかったが、つまりそういう意味だろう。母親はその商売柄か、あるいは職人としての観察眼でチサトの性別を正しく捉えていた。
「くそっ、探偵が欺されてちゃ世話がねぇな」
「だから欺していませんよ。人聞きが悪い」
女に偽装出来ただけあって、整った顔を少ししかめて相手が言う。
「あんたは反論するな」
グラスを持ち上げて一気に中身を飲み干す。アルコールの鋭さが喉を引っ掻いて落ちていった。酒を嗜む方ではないが、決して弱いほうではない。それでも平素は殆ど口にしない洋酒のそれは喉に深い傷を残した。
「もういい、行くぞ」
「何か怒ってますか?」
何故だか困ったようにチサトが言うのが、妙に可笑しかった。しかしリショーは笑いたくなるのを誤魔化して足早に店から出る。追いかけてきたチサトは「あの」とリショーを呼び止めた。
「欺していたと思うなら謝ります」
「そういう言い方はおかしいだろ。謝罪ってのは相手のご機嫌取りじゃない」
一笑に付して言い放つと、チサトはますます困った顔になった。どうやら相手は自分が機嫌を損ねると困るらしい。一緒に鹿冥館に入る人間がいなくなるからだろう。しかしそれはリショーにも同じことで、ここで機嫌を損ねて帰るわけにもいかない。要するに二人の利害関係は一致しているのだから、片方が必要以上にへりくだる必要もない。
怒っていないと言うべきか、それともこのまま遊んでみるか。リショーは少しだけ考えてから、全く違う話を口にした。
「チサトってのは本名なのか?」
「え? ……あぁ、はい。そうです」
呆気にとられた顔でチサトは答えた。
「漢字で書くと、千里の長城と同じです。父はセンリと読ませたかったようですが、母がこちらのほうが良いと。小さいころからよく女に間違われました」
「そうか。てっきり父親の方の発案かと思った。新聞記者ってのは結構突飛な発想する奴が多いから」
「父は普段は堅物でしたから」
「馬車の事故で亡くなったんだろ? さっき貸衣装屋に聞いた」
鹿冥館の前には次々と自動車や馬車が止まり、そこから着飾った男女が降りてくる。ガス灯に照らされたその顔はどれも晴れやかで、自分たちが鹿冥館に来たことを誇らしく思っているように見えた。
「えぇ、そうです」
チサトの声が少し強ばった。
「貸衣装屋が、あんたは父親が殺されたんだと言っていたと」
「誰も本気にはしませんでした」
「なんで殺されただなんて思ったんだ?」
ガス灯の下でチサトは形の良い唇を歪めた。
「大したことじゃないんです。皆、そう言いました。私の考えたことはただの子供の戯れ言で、お前は父親が死んで気が動転しているだけだと」
「戯言でいいから聞かせてみろよ」
「笑いますか」
「どうだろうな。アタイは聖人君主じゃない」
また一台、立派な自家用車が走ってきた。黒塗りの車は夜闇より更に暗く、月よりも明るく見えた。
「手帳が無かったんですよ」
チサトはその自家用車の方に視線を向けながら呟いた。
「父が仕事をするときにいつも使っていた手帳が。何かを記事にするために調べていたはずなのに。馬車の事故が起きる日の朝にも持っていたのに、遺体からはそれが見つからなかった」
「誰かがそれを狙ったってのか」
「そう思ったんです。でも皆さんは、事故のどさくさに紛れて川にでも落ちてしまったんだろうって。大体、手帳を誰かが盗んだところで中身を読むのは難しいだろう、とも言われました」
「難しい?」
「字が汚かったんです」
そう言ってチサトは少しだけ笑った。
「それに思いついた時に思いついたように書くから、父以外には何が書いてあるのかさっぱりわからない有様でして。だからそんなもの誰も盗みはしない、と」
「でも、殺されたって考えを捨てたわけじゃないんだろ」
リショーの言葉にチサトは「どうでしょうね」とどこかやる気のない声で返した。
「父の死の真相を探るために新聞記者になってから、世の中にはそこまで不思議なものはないってわかりましたから。いくつもの当たり前で簡単なことが組み合わさっているだけ。それをどうやって魅力的に書くかが記者の仕事。読む人たちは真実なんてどうでもいいんですよ。真実っぽい何かのほうが好きなんです。そんな記事を書き続けているうちに、父親のこともすっかり過去の出来事になってしまいました」
自嘲めいた言葉だった。
「タイムマシンのことだって、半分ぐらいは打算でした。新聞の見出しにタイムマシンなんてつけたら、売り上げが上がるだろうなと。こんなことを考えてる息子を見たら、父はきっと怒るでしょうね。父は真実っぽいものなんて一切書かなかった」
そしてチサトは言葉を句切ると、リショーの顔を覗き込んだ。
「素晴らしく戯言でしょう?」
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