バーとカクテル

 文明開化を迎えてから一気に西洋化が進んだのは、何も外国に対する畏怖や憧れだけではない。複雑で繊細なカラクリの回路や部品を護るには従来の木と紙で出来た建物では不十分だった。そして西洋の真似をして作った建物は和服と余りに相性が悪かった。文明開化などと気取った言葉を使っているが、すでにそれから半世紀経った今では何ということはない。当時の人々はカラクリをどうにか生活に組み込もうと足掻いていただけである。

 誰がそれを扇動したのか、誰がそれを後押ししたのか。政府だと言う人間もいるし、学者だと言う人間もいる。カラクリという言葉を使ったのは間違いなく政府であるが、その後ろに誰かいたはずだと、その人間こそがこの国を操っているのだと、いつだったかリショーは無差別に送りつけられたメッセージで聞いた。他愛も無い噂話をわざわざ赤の他人に送りつける遊戯は、ここ十年ほどで生まれた文化だった。


「そういえば鹿冥館絡みの物もあったっけ」


 リショーは目の前の建物を見ながら小さく呟いた。さきほどまでいたギンザの商店街からほんの少ししか離れていないのに、周囲の雰囲気は随分と違っていた。恐らく目と鼻の先にやんごとなき方々が住まう場所があるからだろう。広く作られた道の左右には洒落たガス灯が等間隔で並び、背の高い街路樹が行儀良く立っている。ガス灯にはすでに明かりがついていて、その上には紺青色の夜空が広がっていた。

 周囲にある店も、どれも街路建築とは違って本物の煉瓦造りの建物ばかりで、中で働いている者も殆どが洋装か、和装であっても洒落たものを着ていた。まかりまちがっても十三階の近くで見るような、汚れた柿渋染めに木綿のシャツを着ている男などはいないし、親の仇のように白粉と紅を塗りたくった女もいなかった。そういった手合いが悪いというわけではないが、この場所にはそぐわない。


「なんだっけな。鹿冥館はそれ自体が巨大なカラクリで、入った人間はカラクリに支配される……だったかな」


 リショーがいるのは鹿冥館の真向かいにある小さなバーだった。バーとしては珍しく大きな広い窓が取り付けられているのは、鹿冥館が見えるのを売りの一つとしているからに違いない。天鵞絨張りの丸椅子に腰を下ろし、金枠で飾られた窓から見る鹿冥館は絵画や写真で見るのとは比べものにならないほどの威厳があった。リショーにメッセージを送りつけてきた誰かも、きっとこの姿を見て妄言を思いついたのだろう。否、思いついたというよりは考えに取り憑かれたというほうが正しそうだった。人はただの思いつきで無差別にメッセージを送りつけたりしない。

 このバーはチサトが待ち合わせ場所に指定してきた場所である。貸衣装屋で散々な目に合ったあとに店の電話機を借りてメッセージを確認したところ、たった一件だけ記録されていた。時間と、店の名前と、「リショーさんがどういう格好になるかわからないので、窓際にいてください」という余計な一言までついていた。

 結果としてリショーは、慣れない服に身を包み、慣れない化粧を施し、慣れない店の慣れない椅子の上に座って、慣れないカクテルを飲む羽目になっている。その現実を忘れるための独り言も、今のところ何の効果も生み出してくれなかった。


「これで遅刻してきたら、文句を小一時間は浴びせてやる」


 そんな決意を固めて、テーブルの上に置いたカクテルグラスを手に取る。鮮やかな橙黄色の液体。見た目を裏切らない柑橘系の味わいとブランデーの香り。高い金を取るだけあって、カクテル自体は美味しかった。本当は仕事の前に飲むべきではないのだろうが、バーに入っておきながら酒を頼まないというのは妙な話だったので、半ば仕方なく注文した品である。少し離れた場所にあるバーカウンターの中でシェイカーを鳴らしているバーテンダーはカクテルの説明を親切にしてくれたが、リショーはその説明の九割を既に忘れてしまっていた。ただ辛うじて、レモンジュースを使っているんですよ、と言った時にこちらの反応を伺ったことだけは覚えていた。街中でもあまり見ることが無い「レモンジュース」という単語に何かしらの称賛を与えるべきだったのかもしれない。


「名前のほう覚えておけばよかったな。何かに使えたかもしれないし」

「それはサイド・カーですよ」


 誰かがそう言いながらリショーの向かいの席に腰を下ろした。黒いタキシードを着ているのを視界の端に入れて、リショーは眉を寄せる。こうして近付いてくる男はこれで三人目だった。一人で酒を飲んでいる女が珍しいのか、それとも身の丈に合わない格好をしているのを見抜いてからかってやろうとしているのかはわからない。どちらにせよ良い迷惑だった。


「サイド・カーね。覚えておくよ。その礼に教えてやるけど、そこの席は先約済だ」

「先約?」


 相手が小さく笑った。何が可笑しいのかと言い返そうとしたリショーはグラスから視線を上げたが、思いの外相手の顔がすぐ近くにあり、驚いて言葉を飲み込む。テーブルに身を少し乗り出すようにした男は、切れ長の目に笑みを浮かべてリショーのグラスを指さした。


「ホワイトレディのほうが、今日のお召し物には似合いますよ。サイド・カーはあまり女性向きとは言えない」


 長い髪を項で一つにまとめた男は気安い口調でそう言った。髪からは僅かにポマードの香りがする。

 リショーはその顔や声が誰の者であるか理解すると、大きく目を見開いた。


「あんた……っ」


 だが言葉は続かなかった。相手の手がリショーの口を覆うように押さえ込んだためだった。


「駄目ですよ、こんな場所で大声出したら」


 力は殆ど入っていないが、それは間違いなく男の手だった。

 リショーはその手の中で一度深呼吸をすると、手首を掴んで引き剥がす。相手は困ったように眉を寄せて、何か言おうとして口を開きかけたが、リショーはそれより早く言葉を紡いだ。


「よくも欺したな」

「何がですか?」


 男は不思議そうな顔をする。化粧もしていないし髪型も変わっているが、それでも顔立ちまでは変わるものではない。リショーの目の前にいるのは数時間前まで女の格好をしていたチサトだった。

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