山猿と煮干

 あまりな批評に、リショーは反論したい気持ちすら飛び越えて絶句する。自分がおしとやかだなどと思ったことは一度もないが、かといって初対面の人間に山猿呼ばわりされることには抵抗があった。

 どうにか唾液を飲み込むことで気を落ち着けたリショーは、軍服姿の男に一歩近付く。


「誰が山猿だ」

「そういう質問をする奴で、本当に自覚がない奴は見たことが無いな」

「あのな……」


 口か手か足か、どれか一つは出してやろうと思ったリショーだったが、チサトが慌てて間に入った。


「喧嘩をしている場合ではありません。山猿はイサムさんにとっては褒め言葉の部類に入ります」

「全然そう聞こえないけどな」

「動物に例えられているうちは、まだ大丈夫です。うちのキャップなどは弁当箱の隅に残った椎茸に例えられましたから」


 喜べばいいのか呆れればいいのかわからないことを言ったチサトは、男の方を今度は振り返った。


「あんまり意地悪を言っては困ります」

「わかってる。わかってるよ」

「夜会に行くのに服が必要なんです」

「あぁ、あぁ、わかるとも」


 詰め寄るように言うチサトに、イサムはどうやら気圧されているようだった。


「お願いがあると言った筈です。聞いてくれないなら、もうこれっきりです」

「それは困る。あんたはお得意さんだ。山猿がいけないのなら謝るよ。この通りだ」


 イサムは自分の両膝に手を当てて、頭を下げる仕草をした。


「ということです。いかがですか、リショーさん」

「なんだか怒る気が失せた。あんたといると調子が狂う」

「ありがとうございます」

「褒めてない」


 冷たく言い返したつもりなのに、チサトには効いていなかった。寧ろ、一層嬉しそうな顔になる。


「では、後はお任せしますね。後ほど落ち合いましょう」

「は? 置いていく気かよ」

「私も服を着替える必要がありますし。此処に居てもあまり役には立ちませんから」


 そう言われればそれまでなのだが、リショーはこの男と取り残されるのは嫌だった。しかし引き留める理由を探している間にも、相手は無情にそれを叩き潰していく。


「先ほど気にされていたお相手のことですが、そちらについてはリショーさんの手を煩わせることはありません。どうぞ入念な衣装選びを」

「いや、あんたが選んだ相手ってのは不安だ。アタイが探すから」

「時間が勿体ないです。夜会まではそう時間がありませんし、リショーさんは服装だけでなく髪型なども整えていただく必要があります」

「互いに互いの相手を探したほうがいいんじゃないか?」

「それは余計な手間というものです。イサムさん。お化粧もお願いできますか」

「当たり前だ。このままじゃ服だけ上等な煮干しみたいになる」


 いつの間にか山猿から煮干しになっていた。リショーは文句を言おうとしたが、チサトの声が遮る方が早かった。


「それでは、後ほど鹿冥館で。楽しみにしていますね」

「あ、ちょっと……」


 止める間もなくチサトは店を出て行ってしまった。リショーは仕方なくイサムへと向き直る。


「じゃあそういうことだから、チャッチャとやってくれ」

「任せておけ。これが仕事だ」


 イサムは飛び出した目で無遠慮にチサトを眺めた。十三階の裏口で、老婆がチサトを見た時の目つきに少し似ていた。何一つ取りこぼすことなく己の視野に収めてしまおうとする、そんなささやかな狂気と執念。普通の人間ならば嫌がるのかもしれないが、リショーは逆に安心を覚えた。


「お前さんはチサトの友人か?」


 近くの衣装の山をひっくり返しながらイサムが訊ねた。


「オトモダチってわけじゃないな。会ったのは今日が初めてだ」

「そうか。それは残念だな」

「あんたはチサトとは付き合いが長いのか?」

「あぁ」


 男は黄色のドレスを探し当てると、リショーの体に合わせた。しかし納得いかなかったのか、すぐにそれを別の山の上に放り投げる。


「あの子の父親と知り合いだったのさ。あんな死に方をして、残されたチサトが不憫でね」

「あんな死に方って?」

「馬車の事故だよ。街中に銃を撃った馬鹿がいてね。馬車を牽引していた馬が驚いて暴れ出した。サキチはそれに巻き込まれて死んだんだ」

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