2023年12月25日
隣の904号室には若いカップルが泊まっているらしく、昨夜から彼らの”子作り囃子”を聞かされてうんざりしている。12月25日、この国では国民の祝日として約束されている。街はマライア・キャリーの「All I want for Christmas is you」に急き立てられ、性なるクリスマスの904号室では、2回3回と重ねるごとに女のほうが伸びてしまい、いよいよ野太い声を上げている。とりあえず空いたペットボトルを壁に投げつけて「うっせぇ豚どもが!」と挨拶しておいた。
この国の12月25日に舌打ちをするのは2回目だ。前述の通りこの日は国民総出で家族と過ごす日と決め込んでおり、したがって旅行者もこの日ばかりは自由の女神ツアーやメトロポリタン美術館を諦めなければならない。それに気付いたのはニューヨークパスという観光周遊チケットの支払いが済んだ後のことだった。
せっかくの12月25日に何の用事もないということに諦めきれず、ニューヨークパスで参加できるツアーを探していたところ、ブルックリン地区でグラフィティストリートアート(スプレー缶の落書き)のツアーに参加できることが分かった。
ガイドのアレックスは、ジェファーソン駅近くの雑居ビルに描かれた大きな女性の唇を指して振り返った。「まず言っておきますが落書きは違法です」と笑いを取ったところまではよかったが、右手の薬指に光るものに気付いたドイツ人観光客から「クリスマスも仕事で大丈夫なのか?」と聞かれてからは調子が狂った。妻は今日も仕事なのでと頭を振っていたが、明らかにその目は泳いでおり、無理に釣り上げた口角は自嘲気味だった。
――やぁアレックス。キミも聖なるクリスマスの迷子なんだね。
ツアー解散時に少し多めにチップを握らせた。
妻とうまくいっていない。去年の春「離婚したい」と切り出されてからずっと緊張状態が続いている。問いただしたが、返ってきたのは「性格が合わないから」という答えだけだった。怒鳴りつけたいのを飲み込んだが、その後突発性難聴と深刻な不眠症を併発し、秋口から定期的に心療内科に通っている。
娘が生まれてから変わったのは私も同じだ。非正規雇用だったため、より稼がなければと常に責任を感じていた。その責任を全うしてきたつもりだが、離婚を切り出されて以来人生のすべてが重たくなってしまった。咎められるような出費があったわけではない。暴力や不義理があったわけでもない。子育ての大変な時期をおざなりにしてしまったことは反省しているが、家族のために耐え、静かに生きてきたという自負はある。それを一方的に自分の幸せを考えるようになったと始まり、「離婚は海外ではよくあることだから」と娘たちと引き離されてはあまりに間尺に合わない。
ちなみに我が家の公用語はリトアニア語である。それについても度々クレームを入れきたが基本的には黙認してきた。驚いたことに妻は私が働いている会社の名前すら覚えていなかった。これほど深刻なコミュニケーション不足について、妻は子どもたちのことで精一杯だったからと開き直ったが、「よその家庭も同じだと思うか」という切り返しにさすがに黙ってしまった。お互いがお互いを必要としてこなかった事実を正視せず、ただ「性格の不一致」という言葉だけで唯一の生き甲斐である娘たちを取り上られることに半ば呆れ、半ば生きる意味を失った。
毎年点灯式が行われるロックフェラーセンター前の巨大クリスマスツリーは恐ろしい人混みだった。ところがどの顔も数ミリしか進めないこの混雑に幸せそうな顔をしていた。
朝井リョウの小説『正欲』に、大晦日のビジネスホテルで自殺を図ろうとする男の話が出てくる。偶然再会した同じく特殊性癖に疲れていた幼なじみがテレビから流れてくる各地の年末の様子にふとこぼすシーンがある。――大晦日とか正月って人生の通信簿みたいな感じがするよね、と。
家族や大切な誰かと過ごすことが前提のクリスマスや年末年始ほど、孤独を抱える者にとって挫折を覚えるイベントはない。もし東京の自宅で過ごしていたとしても、きっとお金で状況だけ整えたクリスマスを過ごしていただろう。そんなクリスマスならという意味で今日を選んで一人旅に出発したわけではないが、家族に対して申し訳ないという気持ちよりも虚しさが心を覆った。
ロックフェラーセンターのクリスマスツリーは、マンハッタンを覆うグレーの空によく映えていた。5万個以上といわれる色とりどりの電飾を放ち、世界で最も有名なツリーであることを自ら証明していた。
それを一目見ようと押しかけた中にベビーカーが多いことに驚いた。方向転換もできない人混みの中で危ないじゃないかと顔に出しているのは私と交通整理の警察官ぐらいで、それぞれが少しだけ譲り合いながら殺人的な渋滞を成していた。その奇妙な光景にふと気付かされるものがある。
<――みんなのおかげでパパは夢を叶えることができました。いつも応援してくれてありがとう!>
今さら本当は家族みんなでクリスマスのニューヨークに来たかったとも言えなかったが、やはり本当は親子4人で祝えるクリスマスを取り戻したかった。
打っては消してを何度か往復したが、少しピンボケしたマンハッタンのクリスマスツリーを添付すると、<パパより愛を込めて>と付け足して送信ボタンを押した。
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