2023年12月24日

 チェコの作曲家ドヴォルザークが、請われてニューヨーク国立音楽院にやってきたのは1892年秋のことだった。翌年作曲した交響曲第9番のタイトルは「From the New Wolrd」。日本では「新世界より」というタイトルで親しまれている。

 しかし第一楽章からどうも不穏である。急襲を告げるティンパニーが高鳴り、弦楽器の重低音に巻き込まれたトランペットが悲鳴を上げ、巨大な渦の中に引き込まれていく。船を降りて早々親切を装ったスリに遭い、往来では野犬にぶら下げたモノを襲われ、とどめに厠の穴に落ちたに違いない。

 見よ、パグ犬のような顔をしたドヴォルザークのポートレートを。

 プラハ音楽院からの25倍の報酬に頷いてしまったが、本当はのどかなチェコの田園風景を離れることがよほど嫌だったらしい。ニューヨークに来て1年半、ついに彼の精神は決壊した。以来あのパグ犬顔はホームシックにやられ、公園のベンチに座ったまま一日中鳩を眺めていたという。よほどの重篤と見ていい。



 ボストン経由でニューヨークJFK空港に降り立った。

 マンハッタンに向かう夜の地下鉄には狼狽させられた。どの車両にも布にくるまったホームレスが転がっており、その悪臭に何も思わないのか、大柄な黒人たちがヘッドホンから漏れるR&Bに膝を揺らしていた。私は嫌悪に震え、床に伸びたガムの跡を見つめたままマンハッタンに到着した。


 ホテルのチェックインの際も不愉快があった。わざわざ禁煙部屋を予約してきたにもかかわらず、「もし部屋で喫煙が発覚した場合は清掃費用などを請求させていただきます」とフロント係が涼しい顔で告げてきた。

 不思議なことを言うヤツだ。この街は喫煙者に極めて寛容であり、ホテルに到着するまでの道すがらも前からの副流煙を浴びてやってきた。

 往来も戦場である。だれもが信号無視の機会をうかがって首を巡らせており、散歩中の犬が産み落としていったものを拾う飼い主はおらず、それは通行人の注意力に委ねられている。


「――それからそのマスクは外して外出されることをおすすめいたします」


 フロント係のジョセフは私の顔を指差すと深刻そうにそう付け加えた。この背の高い坊主頭が言うには、この街ではマスクは伝染病患者のための医療品であり、そんなものを付けて歩いているとあらぬ疑いをかけられると警告した。

 これはジョセフ氏の信仰の問題ではないことはすぐに証明された。地下鉄ウォールトリート駅の入口で、出会い頭になった黒人からいきなりFワード入りの大喝を浴びせられた。行き過ぎたその言葉に「どちらがビョーキかね?」と睨み返してやったが、その後地下鉄車内で他の乗客からの視線に耐えかね、私はとうとう主義を曲げてマスクを折りたたんでポケットにしまった。



 すべてはドヴォルザークのホームシックに笑い転げた呪いである。

 まったくひどい街だ。ここにいる連中の何割かは病んでいる。今ならあなたが「From the New World」という副題に込めた強烈な怒りを豊かに理解できる。せっかくニューヨークに憧れを抱いてやってきた旅人に、不親切どころか敵意すら感じさせる。


 しかし相反するようだが、私はおしゃべり好きなニューヨーカーたちに好感を持っている。フロント係のジョセフ氏もそうだが、彼らはいかなる状況であっても自ら進んで挨拶をしてくる。そして「どこから来たのか」という質問に絡め、嬉々として己の来歴や近況を明かしてくる。

 ニューヨーク近代美術館のエイラは、先月恋人と別れて一人ぼっちのクリスマスになるらしい。タイムズスクエアの土産物屋は、「どこに行ったらそんなクールなコートが手に入れたのか」と聞かれた。池袋のZARAに行けと返してやったが、着こなしを褒められたその唇はだいぶニヤけた。

 

 ディズニー映画『マイ・エレメント』を見た時、これは誰に対するお説教映画なのかと思ったものだ。火・水・風など異なった元素(エレメント)ごとに棲み分けがある架空の街を舞台に、異文化への理解や助け合いが展開される。

 ニューヨーカーはよそ者にいちいちルールを教えてあげるほど優しく出来上がっていない。英語が通じて当然であり、この街のルールぐらい事前に理解してここにきていることを前提としている。その自己中心的な性格は厄介ではあるが、「それよりあなたのことをもっと教えてよ」という愛嬌も持ち合わせている。

 近頃他人への関心が薄れていませんかという『マイ・エレメント』の問題提起をニューヨーカーたちはどう受け止めているのか――。



 ニューヨーカーはたくましい。

 マスクなんかいらねぇし、犬のクソもテメェでよけりゃいい。地下鉄に清潔感なんざ求めちゃいねぇけど、ところで挨拶もできねぇとは一体どういう了見なんだい?

 振り返れば、挨拶もせずぬっとオフィスに入ってくる若い奴らのことを思い出す。仕事の出来不出来はともかく、たかだか挨拶すらできないのは度し難い。


 ドヴォルザークが「From the New World」という友人への便りのようなタイトルに込めたニューヨークは、好戦的で身勝手で乱暴な印象ばかりである。

 地下鉄の悪臭も道の真ん中で湯気を立てている犬のフンにも発狂しそうだが、まずは言葉のキャッチボールでほぐそうと誘ってくるニューヨーカーたちへの印象は、街全体のそれとは裏腹に軽やかで心地よいものであった。

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