ノンストップ・アクション〜From the New World~
マジシャン・アスカジョー
〜Prologue〜2023年11月23日
「――それから最終出社日のことですが、クリスマスにニューヨークへ行くことになりました。すみませんが12月22日の金曜日を最終日でお願いします」
キザな冗談として流されると思っていたが、画面の向こうから起こった拍手と歓声にチームミーティングは中断された。
どこもそうだがメンバーが一人減ったからといって人員補充など望めない。それぞれに私の担当が割り振られたまではお互い様として、クリスマスはニューヨークなのでとはかなり挑発的である。ところが「自由の女神は予約してからじゃないと行けないよ」とか「ジャズを聞くならブルーノートよりハーレムのほうが絶対オススメ」と盛り上がる職場でよかった。
ちなみに正月明けから勤務する初台の会社は今の職場の業務委託元であり、部門長や多くの仲間たちが頭を下げてくれたおかげでの移籍となった。少し早めの年末休暇とになったが、快く一切を引き継いでくれたチームには感謝しかない。無事マンハッタンのクリスマスツリーを拝めた暁には、ポストカードの1枚ぐらい送らなければならない。
「――ったく、この円安の高けぇ時期にわざわざアメリカなんか行くことねぇじゃねぇかよ!」
夕方の明治通りを池袋方面へと左折する。インシュリンを打ってもらった帰りだからか、助手席は普段の何割か増しで騒がしい。
次回は舌の根の動きが悪くなる注射もお願いしようか――。
いい加減口を開きかけたが、20年分のストーリーを理解してもらうには親父は歳を取り過ぎている。私はハンドルを握ったまま前の下手クソな縦列駐車に舌打ちをした。
過ぎたものは卒業アルバムでさえさっさと捨ててしまう主義だが、20年間も棚に置きっぱなしになっているノートがある。大学時代に駆け回った世界放浪の旅をまとめたノートだ。
99年ヨーロッパ周遊編にはじまり、アジア横断編、オーストラリア留学編、そしてユーラシア横断編と旅ごとに新しいノートを買い、地図や集めた情報を書き込んできた。街から街へと移動するバスの中や屋台のテーブルで綴った日記やメモは、後年『ノンストップアクション』シリーズという長編の中に吸収されていった。
ニューヨーク行きの原案は「幻の5冊目」にある。旅の総仕上げとして、ロサンゼルスからニューヨークまでの全米横断を企画していた。
いつまでも無邪気な空の青さを追いかけていたかった。しかし本当は妥協だらけの人生に落ち着く自信がなかったからで、次第に夢の続きを聞かせる相手もいなくなり、私は誰もいなくなった大学の教室でひとりノートに夢の続きを語り続けた。
30歳を手前に結婚し、35で父親になった。ノートは次第にビジネス書や小説に押しつぶされ、今はクローゼットの段ボールの中で眠っている。ただ、その存在まで忘れたことはなかった。見開きには”ラストはニューヨークへ!”と若かった頃の意気込みが太い油性ペンで躍っている。
しかしその「いつか」は一体いつ来るのか――。
現実と格闘する中で、いつしか「夢」など卑猥な妄想と同じ響きになっていた。自分を飼いならすことに慣れ、送りバントで少しでも前進を稼いできた。大事なのは妻や子供たちとの時間だとわかっている。しかしふと営業カバンをベンチにおいて見上げる空の向こうに、忘れられない憧れを覚えることがある。
若い頃にノートに綴った夢など新聞の束に混ぜて玄関の外に出してしまえば済んだのかもしれない。しかしそれを後回しにしてきた結果、いつしかニューヨークという言葉は、超えられない壁として心の中に大きな影を落とすようになっていた。
きっかけは「最終出社日をいつにするか」と会社から確認されたことだった。有休消化も含め10日間という暇に、ふとクローゼットの中にしまってあった赤いノートがパラパラとそよいだ。
人生とは楽天的を好むものだ。周囲の迷惑や混乱を心配したが、意外にも会社の皆には胸のすくような活劇を提供したらしい。年老いた両親を除き、「人生は一度きりなんだから」とみんなで私を担ぎ上げてくれた。そう、あの妻ですら――。
「クリスマスにちょっと…」と口ごもる私に対し、妻のシモナは瞬きをふたつしただけだった。些細な会話ですらささくれ立つようになって久しい。慌てて「もちろん一人だけどね」とあらぬ疑いを否定しておいたが、返ってきたのは「でしょうね」という短い感想だった。
「――アメリカって銃で撃たれるところなんでしょ?パパはなんでそんな危ないところに行くの?」
妻の薄い反応はともかく、娘たちは不吉な混乱を示した。思わず笑ってしまったが、まずはクリスマスにパパがいないことを謝らなければならない。
「でもさ、傷のないまま死ねないだろ?」
出た。映画『ファイトクラブ』のブラット・ピットが。
旅を続けていたあの頃、気に入って乱発していたセリフだ。
自分の命についてゾッとするような乱暴さで考えていた頃からは多少大人になったつもりでいたが、いまだにそんな響きに色艶を感じてしまう自分が好きでも嫌いでもある。
幼稚園に通う下の子は、私に抱きかかえられながら「撃たれてないでね」と声を震わせた。
「大丈夫。パパは”いつか”をいつかのまま終わらせたりしないよ」
ふと見ると、遠い昔に聞かされたキザなセリフに、妻は冷めたい視線を向けていた。
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