3
コンビニから戻ってくると、玄関の扉は無用心にも開いていた。インターホンを押しても先生が出てこないので勝手に入ると、シャワーの音がした。
どうやら集中しすぎて風呂に入っていなかったことに気づいて、僕がコンビニに行っている間に入浴を始めたらしい。
僕は鞄を先生の仕事机によりかからせて置いておき、リビングの座卓にコンビニで買ったお弁当を乗せた。先生が戻るまで、しばし待機である。
仕事机のパソコンモニターを覗き見する。つい先程まで原稿を描き進めていたのだろう、文書ツールの画面が開きっぱなしになっている。
その隣に置かれた竹人形が、僕を見ている。傷で描かれた簡素な造作の微笑みに、ぞっと背すじが冷えた。
そうだった、竹人形。
これの存在を忘れかけていた。
僕は竹人形を手に取った。初めて触ったが、竹なので中は空洞なのだろう、かなり軽かった。人形はうっすら浮かべた微笑みで、僕を見つめ返してくる。
この竹人形は、一週間後に持ち主を死に追いやる。という逸話がある。だが大家さんから、ただの民芸品だと聞いている。インチキグッズのはずだ。そのはずなのに、体じゅうにぞわぞわとした掻痒感が這う。
もしもこれが、本物の呪物だったとしたら。僕が今日、ここを訪れず、先生が残りの三日間もブレーキが壊れた状態で文章を書き続けていたら……。
「まさか……な。ただの民芸品だって、大家さんが言ってたし」
僕は口に出して自分に言い聞かせて人形から目を逸らすと、モニターが視界に入った。画面左下には、打ち込んだ字数とページ数が刻まれている。その文字数は七万字を超えており、僕は目を疑った。
僕の場合なら、十万字描くのに大体一ヶ月かかる。もちろん原稿だけに向かい続けるのではなく、バイトに出かけたり、通常どおりの私生活を過ごしながらだ。先生がこの原稿に着手したのは、一昨日である。今日を含めて概ね三日で七万字……人間らしい生活をしていないのが透けて見える数字だ。
そして僕は、ちらっと、本文に目をやった。先生の初稿……まだ世に出る前の、それどころか編集者の椋田さんすら目を通していない原稿だ。一端のファンである僕が見ていいものではないが、一端のファンだからこそ、欲を抑えられなかった。
先生がシャワーを浴びている隙にちょっとだけなら、冒頭だけ斜め読みなら、と自分に言い訳して盗み読みを始めた。
主人公は中学生の女の子、「初音」。教室の隅で大人しく本を読んでいるシーンから始まる。
彼女はクラスメイトから、陰湿な嫌がらせを受けていた。無視、陰口、それから面倒な仕事を押しつけられる。物理的な暴力といった派手な描写はないものの、初音の抱くやり場のない憎しみが、まるでリアルな自分の感情のように流れ込んできて、どうしようもなく胸がざわつく。
今回の作品は呪殺系ホラーと聞いている。初音というこの少女が、いじめっ子を呪い殺すのだろうか。
と思ったのだが、冒頭の数ページでは延々と、初音がいじめを受ける残虐な描写が続く。呪いも幽霊も出てこないが、これはこれで吐き気がするほど恐ろしい。人間の嫌なところを、ねっとりと描いた作品になっている。
呪いの要素はなかなか出てこない。もしかして、先生と椋田さんとで話し合って、呪殺系から別の系統に路線を変えたのだろうか。
僕は先の展開を予想しながら、我慢ならなくなって最後のページへ一気にスクロールした。まだラストまでは描き切られていないが、先生が描き進めている現在の時点まで進む。
目に飛び込んできたのは、先生らしからぬ性描写だった。といっても、官能的な意味ではない。初音が人けのない場所へ連れ込まれ、クラスメイトの男子三人に強姦されているのだ。それを、いじめの主犯格の女が、携帯で動画を撮っている。
「うっ……」
思わず、喉が鳴った。気持ち悪くなるほど、生々しくてえげつない。初音の痛みと苦しみが、自分が体感しているかのように伝わってきて、死にたくなる。
それなのに、目を逸らせない。続きを、続きをと読んでしまう。
文章は途中で切れた。この時点で僕が訪ねてきて、先生は執筆を中断したのだ。僕はそれにやきもきした。続きを読みたい。いや、描きたい。
このあと初音は、抵抗したくてもできなくて、生きているのに死体のように、指先ひとつ動かせなくなる。体が拒絶反応を起こして、床が血だらけになって、それでもされるがままなのだ。
描きたい。早く、この先を描きたい!
と、そのとき、背後から声がかかった。
「こら。まだ読むんじゃない」
リビングに先生が戻ってきた。Tシャツとハーフパンツの薄着に、ドライヤーで軽く乾かしただけの湿った髪を垂らしている。お湯を浴びたおかげか、顔色は多少はマシになった。手には一升瓶を持っている。
僕はハッと我に返り、素直に頭を下げた。
「すみません、新作が目の前にあったので、我慢できず」
「油断も隙もあったもんじゃないな」
斜め読みのつもりが、すっかり心を奪われて読み耽ってしまった。刊行されたあとに買って読む楽しみも減ってしまうし、描きかけの原稿を勝手に読むの自体よくない。分かっていたのに、止まらなかった。
僕は反省しつつも、先生に訊ねた。
「これの続き、まだですか?」
「私は明日にでも描き上げたい。それを止めたのは君だろう」
先生の正論が僕に刺さる。そのとおりだ。
初稿の時点で引き込まれる高い完成度だけでも驚かされるのに、執筆速度も僕には考えられないほどだ。先生の能力には憧れるが、一方で、これほどのものを描くために先生自身の体が削られてしまっているのは悲しい。
「なら先生に休んでもらって、僕が続きを描き……」
言いかけて、僕は咄嗟に口を噤んだ。
なにを言っているんだ、僕は。これは先生の作品だ。なぜそれを僕が引き継ごうなんて考えたのか。自分でも意味が分からない。
きょとんとしている先生に、僕は誤魔化すように切り替えて言った。
「今回は学生主人公なんですね。強姦の描写をあんなにしっかり描き込むと思わなかったから驚いたけど……新しい可能性を見た気がします。完成が楽しみです」
「学生主人公? 強姦?」
先生はそう言って、屈んでモニターを覗き込んだ。自分で描いた文章を読み直して、ふうんと鼻を鳴らす。
「本当だ。そうしたみたいだな」
「なんで他人事なんですか。先生が描いたんでしょ」
「全くもってそのとおりだ。ははは」
先生の言動が怪しい。疲れが溜まっているからだろうか。僕は一層心配になった。
「大丈夫ですか?」
「心配性だなあ。ただちょっとばかし原稿にかかりきりだっただけだろう」
そして先生は、僕が手に持つ竹人形に気がついた。
「ああ、その人形。それ、なかなか面白いよ。あるだけでインスピレーションが無限に湧くんだ」
それを聞いて、ぞくっとした。先生はもしかして、本当にこの人形に突き動かされて、手を止められなくなったのではと思えてしまう。
先生は隈のできた顔で楽しげに笑った。
「呪いの期間も折り返しだというのに、鬱々としてなくてすまないね。仕事が楽しくて堪らないんだ」
「たしかに鬱々とはしてませんが、あと二日原稿に齧りついていたら本当に死んでいたのではないかと思えなくもないですよ。今の先生の状況は深刻なんで、インチキの呪いなんかに絡めるのも縁起でもないですけど」
僕が言うと、先生はむっと眉を寄せた。
「インチキだって言い切るのか?」
「あ、実は大家さんから、この人形はただの民芸品だって教えてもらいました」
「急に夢を壊すようなこと言わないでくれ」
先生はクッションに座って、僕にも腰掛けるように促した。
「まあいい。お弁当の用意、ありがとう。君は食べないのかい?」
「僕はバイト先で食べてきました」
「そうか。じゃあ食事は私だけでいただくとして、早速、酒を開けようじゃないか」
先生は上機嫌で一升瓶を開け、ふたりぶんの器に注いだ。遠い地の珍しいお酒ににまにましながら、先生は言った。
「ところで君が来て思い出したんだが、明日はどちらにせよ原稿は進められない。用事があるんだった」
「前日まで予定を忘れて、仕事に没頭してたんですか……」
先生の机に竹人形を置き、僕も座卓の前に腰を下ろす。先生は軽やかに笑った。
「それがさ、なんと明日は友人の結婚式だったんだよ」
「そんな大事な予定忘れてたんですか!?」
語気を強めてもう一度繰り返してしまった。先生は楽しげに笑うばかりだ。
「ははは! いや、忘れてたんじゃなくて、没頭してるうちに時間が溶けてて、いつの間にか明日になってただけだ。この酒がなかったら、そのまま気づかずにバックレてたかもしれないがね」
「ちょっとちょっと……明日そんな大事な予定があるのに、お酒飲んでていいんですか?」
「それは関係ないから。時間どおりに到着できれば問題ない」
「とりあえず、ご友人の方はおめでとうございます。先生は、明日は仕事を忘れて羽根を伸ばしてくださいね」
僕がアシスタントについたと知ったときの椋田さんの気持ちが、今になって分かった。たしかにこの人は、面倒を見る人がいたほうがいい。
因みに大家さんからのお土産のお酒は、かなりアルコール度数が高く、僕はひと口で後ろに倒れて仕事机の脚に頭をぶつけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます