第二章・吊り橋の女
1
「ふう、よいしょっと」
「かるがも荘」の外付け階段を、汗を拭いながら上る。夕方になって日が傾いても、この時期は暑い。
麗華先生の元へ通うようになって八日目。僕は先生に頼まれていた品を抱えて、今日もこのアパートに訪れた。
心霊スポットの探検と降霊術の実験台からは免れたものの、僕は相変わらず、先生のパシリとして遣われている。今日は先生のお使いで、バイトの帰りに写真店に寄ってきた。そこで手渡された荷物を持って、先生に届けにきたのである。
階段を上ってすぐの扉が、先生の部屋である。上がってきた僕は、その扉の前に佇むおばあさんを見つけた。
辛子色のエプロンをかけたその老婆は、腰の曲がっているせいか、身長は僕の腹辺りまでしかない。ぎょろりとした目と口角の下がった口元は、カエルに似ている。
このアパートの住人だろうか。僕は遠慮がちな会釈をした。
「こんにちは」
僕の挨拶で、老婆が振り向く。白目の面積の多い目が、僕を睨む。
「なんだい、お前。ここの住人に用か」
「はい、お手伝いを頼まれてまして」
返事をしたあとに、僕はハッとした。この老婆、見たことがある。老婆のほうも、僕の顔を見て思い出したようだ。ふたり同時に、大声を出す。
「あのときの占い師!」
「あんときの小僧!」
先生のサイン会の日に、僕を引き止めたあの占い師だ。それがなぜ、こんなところに。
仰天していると、先生の部屋の扉が開いた。
「お待たせ、大家さん。ほい、今月の家賃」
顔を覗かせて茶封筒を差し出す、先生の姿が覗く。僕は耳を疑った。
「大家さん?」
「おお、小鳩くん。いらっしゃい」
先生がこちらに身を乗り出す。今日もキャミソール一枚と短いスパッツだけの、隙だらけの格好だ。
占い師、否、大家さんは大きな目を一層見開いて僕と先生とを見比べた。
「なんだねあんた、新しい男連れ込んで」
「あー、違う違う。この子はアシスタントくん。てか新しくない男もそれムクちゃんだから。担当編集だから」
僕のほうも訊きたいことがある。こちらも負けじと先生に問うた。
「先生、大家さんって!? 僕、以前、この人に変な数珠買わされそうになりました!」
「ちょっとちょっとー、大家さん。まーたあんたはインチキ占いで人の不安煽って金儲けしてんのか」
先生は大家さんに怪訝な顔を向けると、大家さんはつんとそっぽを向いた。
「人聞きが悪いね。あたしゃ『安心』を売ってるのさ」
先生が僕を振り向く。
「ごめんねー、小鳩くん。大家さんはサイドビジネスで占い師やってんの。まさか小鳩くんがカモられてたとは知らなかったな」
それを聞いて僕は、内心胸を撫で下ろしていた。やはりあれはインチキ占いだったのか。元からさほど信じてはいなかったが、「悪霊に好かれる」なんて言われたら夢見が悪い。
「インチキで良かった。悪霊に好かれたら溜まったものじゃないですよ」
「へえ、そんなこと言われたんだ」
先生はへらっと笑って、それから意地の悪い目で言った。
「オバケが寄り付きやすいわけだ。思わぬ収穫だったな。取材に便利そうだ」
「えっ」
僕は先生を二度見する。先生はそれを無視して問うてきた。
「小鳩くん、大家さんといつ知り合ったの?」
「サイン会の日です。鴉川市の町で会いました」
「あー! あの日、大家さんも一緒に来てたんだよね。ムクちゃんが車出してくれるって知って、自分も行きたくなったみたいで」
先生が可笑しそうに言うと、大家さんは決まり悪そうに眉を寄せた。
「もちろんこいつのサイン会に興味があったわけじゃない。鴉川と聞いて、名物のお焼きを思い出しただけさ」
「そんで、暇な時間を商売に当てるつもりで、商売道具一式持ってきてんの。がめついよなー」
なるほど、それで大家さんも、あの日にあの場所にいたわけか。大家さんは白けた目で僕を一瞥した。
「やはりお前は悪霊に好かれて、ろくでもない人生まっしぐらだな。こんな厄介な女に引っかかるとは」
厄介な女というのは、先生のことだろうか。酷い言われようの先生は、ケラケラと笑っている。
「そうかもなあ、気の毒に。大家さんからパワーストーン買ったほうがいいんじゃない?」
「ええと、大家さんの占いって、インチキなんですよね?」
僕は困惑気味に確認した。先生が宙を仰ぐ。
「さあね。当たる! って言ってる人もたまーにいるけど。信じたければ信じればいいんじゃない?」
僕は大家さんが占い師になっていたときに言われた、診断結果を思い浮かべた。
『失敗の連鎖で自信を失っているだろう。かつての成功を取り返そうと足掻けば足掻くほど、沈んでいく』
思えばこれは、僕に限らず心当たりがある人は少なからずいる。負の連鎖を自覚している人も多く、「悪霊」なんていう外部的要因に責任を押し付けたくなる気持ちも湧く。
コールドリーディングだ。誰にでも当てはまりそうな例を出し、相手の反応を見て、言葉巧みに相手を操る心理誘導である。
先生が肩を竦める。
「実は私も、大家さんにカモられたんだ。このアパートは人が死んでる物件で、心霊現象起きまくりって聞いたから入居したのに、なーんにも起こらない」
「人が死んでる!?」
思わず僕は大声を出した。
「ここ事故物件なんですか!?」
「なんにも起こらないから、ただの噂なのかも」
先生はそう言うが、知った以上は気になる。大家さんが怪訝な顔で先生を睨む。
「そもそもカモってないわ。心霊現象の噂があったら入居者が入らなくて困るんだから、あたしゃひと言も言ってないよ。あんたが勝手に噂を聞きつけてきて、好き好んで住んでるんだろ」
お金に困らなそうなのになんでこんなボロアパートに住んでいるのかと思ったら、そういう事情だったのか。
「他にもね、呪われた車だって紹介された中古車も、怨念が篭ってる家具も、大家さんの紹介で買ったのに、なにも起こらない」
「でも、懲りずに買ってるんですね……」
「うん。だって本当になにかが起こったら儲けものじゃないか。作品の題材に使える」
先生は大家さんの占いをインチキ扱いしている。でも、面白そうだと感じたら都合よく乗っかっている。この人は、そういう人だ。
「『小鳩くんは悪霊に好かれる』は、私としては面白いから、信じる」
「僕は信じません」
僕らのやり取りを見ていた大家さんは、インチキではないと弁明する様子もなく、澄ました顔で口を結んでいた。
僕は大家さんと先生の両方の顔を見比べた。
「因みに、事故物件というのは事実なんですか?」
大家さんはこちらも黙秘した。先生のほうは、さらっと喋る。
「事実かどうかは調べてないけど、噂によれば、この部屋で手首を切って自殺した男がいたらしい」
大家さんはこれも肯定も否定もしないで、ため息で流した。
「で。小僧、こいつになんか用事があったんじゃないのかい?」
「ああ、そうでした! これ、届けに来ました」
僕は写真店から受け取ってきた紙袋を、先生に突き出した。先生が扉の向こうから手を伸ばす。
「お使いサンキュ、小鳩くん。これを待ってたんだよ。修理が終わったって、今朝連絡があったんだ」
紙袋の中から取り出されたものは、緩衝材のバブルシートに包まれた、カメラである。僕がバイト帰りに写真店から受け取ってきたものだ。
先生がバブルシートを剥がす。中身は、古臭いフィルムカメラだった。垢抜けないフォルムのボディに細かい傷がいくつもついており、少なくとも、十年以上は使い込まれている雰囲気だ。
先生はカメラを掲げて機嫌よさげである。
「先生、カメラ持ってたんですね。しかも古そう。長く大事にしてるものなんですか?」
「いや? 買ったのはほんの二年くらい前だよ。中古で買ったから物は古いけどね。おかげで故障が多い」
彼女はカメラの状態を確認すると、周辺の景色や自身の部屋の中に向かって、数回シャッターを切った。
「よしよし、動くね」
動作確認を済ませた直後、先生は今一度そのカメラを僕に預けた。
「じゃ、小鳩くん、そこでちょっと待ってな。着替えてくるから」
「へ?」
カメラを持たされた僕の前で、パタンと、先生の部屋の扉が閉まった。扉の向こうから声だけする。
「カメラが戻ってきたからね! そのために今日は酒を飲んでない」
呆然とする僕に、大家さんが同情混じりの声で言った。
「あーあ、かわいそうに。あんた、やっぱり負の連鎖に嵌ってるよ」
漠然とした不安が、僕を襲った。
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