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時刻は二十時半。先生の薄黄色の軽自動車が、人けのない道をガタガタ走る。カメラ同様これもまたレトロな車両のこいつは、猫の目のような丸いライトで、ボコボコのアスファルトを照らしていた。
助手席に座らされた僕は、今更ながら訊ねた。
「どこに向かってるんですか?」
「ふふふ。それは行ってのお楽しみ。分かんないほうが楽しいだろ」
ブラウスと黒のスキニーパンツに着替えた先生が、ご機嫌で車を走らせる。そしてなぜか、僕の首に、ストラップで吊るしたフィルムカメラ。
僕はこのカメラを、いろんな角度から眺めた。写真店から受け取ったときも思ったが、結構ずっしりと重い。僕にはカメラの知識がなくて使い方すら分からない。
突然の外出に、当然のように僕の同行が決まっていた。むろん、特に了解を取られたわけでもない。
ハンドルを取る先生の横顔に、僕は不安を募らせた。
「行き先くらい、教えていただかないと怖いんですけど……」
「小鳩くん。人は未知に恐怖を覚えるものだ」
先生が落ち着いた声で話す。
「例えば君は、見知らぬ土地で出会った謎の占い師の老婆に、気味の悪さを感じた。しかしそれがボロアパートの大家さんで、インチキ占いで小遣い稼ぎをしていると知れば、その程度のものだと安心できる」
そういえばそうだ。なにが起きたか分からないとき、次になにが起こるかもっと分からなくて、恐怖を感じる。でも知識があってその先が分かれば、対処できる。知れば知るほど恐ろしいものもあるが、知識があれば、そういったものを正しく恐れることができる。
先生がしたり顔で僕を一瞥した。
「つまり、これからなにをするか教えちゃったら、君は身構えてしまう」
「もうすでに身構えてますけど!?」
「大丈夫、大丈夫。常識的な時間には、家まで送ってやるからさ」
こんなふうに言っている時点でろくなところへは行かない。警戒する僕を尻目に、マイペースな先生は別の話を始めた。
「ところで小鳩くん、君、小説家なんだよね」
「まあ、元・小説家です」
本当はもう一度立ち上がりたいけれど、「本物」である先生の前では、小説家を名乗れなかった。
先生はあっけらかんとして言う。
「小説家・小鳩ひかる、ねえ。聞いたこともなかった」
「はは……一時期はそれなりに話題になりましたけど、すぐ消えましたから」
にべもなく言われたが、それでいい。先生に認知されていたら恐縮すぎて胃がひっくり返る。作家・月日星麗華は、僕が一方的に憧れているだけの存在でいてほしい。
そんな僕に、先生は取り繕うでもなく普段どおりの口調で話した。
「いや、君を無名だと言いたいんじゃなくてね。私、本読むのが苦手で、小説とか全然読まないんだよ。受賞していようと流行っていようと、他の作家にあんまり興味ないんだわ」
「え……そうなんですか」
先生みたいな売れっ子になるためには、読書量が必要だと考えていたのだが。先生ほどの生まれついての天才なら、不要なのかもしれない。
先生はのんびりと続ける。
「でもね、あれは読んだよ。ムクちゃんから取り寄せてもらって」
「ん? なにをです?」
「『コイサク』。小鳩くんのデビュー作」
直後、僕は声にならない悲鳴を上げた。仰け反って車窓に頭をぶつけ、それに驚いた先生が急ブレーキを踏む。キーッと鋭い音がして、僕はもう一度頭を打った。
先生が困惑顔で僕を一瞥する。
「おいおい、どうした」
「どうしたもなにも、読んだんですか? 僕のあれを……なんで……!」
僕はこれまで感じたことのない感情で、打ち震えていた。ベストセラー作家、月日星麗華に自分の拙い作品を読まれた。これは羞恥か歓喜か屈辱か。一方的な憧れであってほしかったという、身勝手なエゴか。
先生はきょとんとして、また車を発進させる。
「読んじゃ悪いかよ」
「だ、だって。ベストセラー作家の……憧れの先生に読まれたんですよ!?」
「あんただって私の作品読んでるじゃんか」
僕と先生とではステージが違う。
まだ心臓がばくばくしている。感想を聞きたいけれど聞きたくない。肚が決まらないうちに、先生はあっさりと話し出した。
「良かったよ。ありふれた内容なんだけど、よく言えば普遍的で、大衆受けが良い。目新しさには欠けたが、オーソドックスで安定した味を楽しめる、ファミレスみたいな作品だったよ。ムクちゃんも『泣いた』って言ってたし」
「うわああ! 本人の前で感想言わないで!」
「あんただって私の前で感想言うじゃんか」
先生は平然としているが、僕は顔を覆って上げられなくなった。話題作として持ち上げられて、多くの人に読んでもらって感想を貰えるのが嬉しかったはずなのに、この小っ恥ずかしさはなんなのか。
小さくなる僕を気にせず、先生は続けた。
「小鳩くんの作品は人間のきれいな部分をきれいに描いた優しく温かい青春小説だった。そんな物語を描く君が、私の作品に嵌まるとはね」
「二作目が跳ねなかったから、作風の転換を考えたんです。それでジャンルにこだわらず、色んな作品を読んでいるうちに、先生の作品に出会いました」
僕はぽつりぽつりと、その経緯を話す。ほう、と先生が感嘆した。
「ホラー描きたいの?」
「全然。ホラーは苦手だから、描くのなんてもってのほかです。本当は読みたくもない。表現の勉強のためにと、仕方なく読んだだけで……」
先生本人にこう話すのは失礼承知だが、素直に打ち明けてしまった。
「自分とは縁のないジャンルのはずです。それなのにどうしてか、先生の作品に惹かれてしまうんです。実はホラーが好きなのかとも考えたけど、他の作家のホラー小説はこうはならなかった。先生だけなんです」
自分でも分からない。先生の作品のなにが、こんなに僕を引きつけているのか。
そうだった、僕はそれを知りたくて、この人のアシスタントになったのだ。僕は伏せていた顔を上げて、真っ直ぐ先生の顔を見る。
「どうしてなんですか? どうしてこんなに、僕の心を奪うんですか?」
先生は真顔で、フロントガラスの向こうを見つめていた。そしてふっと、頬を緩める。
「どうしてだろうねえ」
僕は漠然と、それでいて妙な確信を持った。この先も一生、僕はこの人に弄ばれる。この人の描く小説に魅了された時点で、きっと、そう決まっていたのだ。
三十分くらい走っただろうか。車が斜面を登っている。暗くて景色がよく見えないが、助手席側にはコンクリートの壁、運転席側には背の高い木々がびっしり並んでいる。なにやら山を登っているみたいだ。
「ここ、どこですか?」
「火滝山だよ」
火滝山は、東京から山梨方面にかけて跨がる低山である。登山初心者からハイキングコースとして人気の山だそうだが、僕はこれまで登ったことがなくて、名前しか知らなかった。
暗闇の中、すれ違う車もない狭い山道を登っていくのは、いかんせん不安な気持ちになる。
「夜に山を登るのは危ないですよ。怖いですし帰りましょうよ。明るくなったらまた来ましょう」
僕が促すも、先生は全く戻る気がない。
「夜のうちじゃないと見られないものがあるんだよ」
そして左手の人差し指で、僕の首から下がったカメラを指さした。つまりなにか、夜にしか見られない景色の写真を撮りに行く、ということだろうか。
最初に頭に浮かんだのは、夜景だ。しかし相手はあの月日星麗華である。そして僕は、心霊取材用のアシスタント。
「君の首から下がっているそのカメラ、それも大家さんに煽られて買ったんだ」
先生はやる気に満ちた目をしていた。
「心霊写真に向いてるカメラ、ってね。発狂して自殺した人の、遺品整理で売り捨てられたものらしい。カメラ自体に、なんらか宿ってるんだと」
「ひぇっ!?」
僕はびくっと飛び跳ね、カメラから両手を引き離した。先生がハンドルを回す。
「火滝山には吊り橋があって、そこに女の幽霊が出ると言われている」
嫌だ。
僕が青くなる一方、先生はご機嫌である。
「撮りに行こうぜ、心霊写真」
急に車に乗せられた辺りから、嫌な予感はしていたのだ。僕はドアハンドルにしがみついた。
「か、帰る! 降りる!」
「ここで降りたら却って危ないぞ」
先生の車は無情にも、僕を乗せて坂道を登っていった。
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