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目を覚ますと、僕は路地の入口、大通りの建物に寄りかかっていた。
「お、起きたか小僧」
頭上から声が降ってくる。目を上げると、夜明けの空を背負った麗華先生の顔があった。彼女は両手に缶を持っており、その片方を僕に差し出してきた。冷たいカフェオレだ。
「いきなり殴ってごめんな。私、美人で有名人だから、もしものときのために即座に護身術を発動できるように鍛錬してんのよ」
僕は無言でカフェオレを受け取った。冷たくて気持ちいい。
頭がぼんやりして、なにがあったか思い出せない。徐々に覚醒してくると、ひとつずつ整理できてきた。
「ええと、僕はたしか、道に迷ってて。そんで、なんか怖い子供に追いかけられて……」
それに麗華先生が缶チューハイを浴びせた……ような気がするが、流石にそれは変な夢だろうか。いやでも、今目の前に先生がいる。
ここまで考えて、僕はびくっと飛び上がった。
「あっ! つ、月日星、麗華先生!?」
「ん? お? そういやあんた、どっかで見た顔だな」
先生が僕に顔を近づける。夜明けの暗がりの中で目を細め、数秒立っても回答が出ない。痺れを切らして、僕は自ら名乗った。
「小鳩ひかるです。サイン会でお会いした……」
「あー! ムクちゃんがなんか言ってた、ナントカ賞の子か」
先生が手を叩く。先生からしたら僕の存在なんてこの程度の認知だったか、と思うと、ぐさっとくる。それから先生は、ニッと口角を上げた。
「"作家は経験したことしか書けない"の話をした、君か」
先生は、僕にあまり関心がなさそうだ。でも、なんの話をしたか、ちゃんと覚えていてくれた。僕は少し、救われた気持ちになった。
先生は僕の横に腰を下ろした。カシュッと音を立て、持っていた缶を開ける。
「まさかまた会うとはなー。人の縁ってもんは奇妙なもんだね」
「そうですね。しかもなんか……妙なシチュエーションで」
あの不気味な迷路に迷い込んだ僕は、進んでも戻っても帰ってこられなかった。でも今は、朝が来ようとする大通りに座っている。先生がここまで連れてきてくれたのだろうか。
「すみません、僕、気を失ってしまって。助けてくれてありがとうございます」
「ん。私が殴ったから気絶したんだ。気にすんな」
「僕、道に迷って困ってたんです。どれだけ歩いても元の道に戻れなくて……まるで時空が歪んでるみたいでした。ここまで連れてきてもらえて、本当に助かりました」
通りに出られれば、駅まで帰れる。安堵する僕に、先生はへえと感嘆した。
「そうだったんだ」
「先生は、迷わなかったんですか?」
「んー、酔ってたから、なーんにも覚えてない」
先生が缶を口に傾ける。
「サイン会のあと、打ち上げの飲み会をしてね。四軒目で編集のムクちゃんが潰れちゃったから、ムクちゃんだけタクシーでホテルに帰して、私はコンビニでチューハイ買って飲み直してたんだよ」
「四軒目、プラス缶チューハイって、どんだけ飲むんですか」
「ほんで千鳥足でふらふらしてたら、いつの間にかあそこにいて。そしたら君がいて、って感じ」
ベロベロに酔っていたのは、そんな経緯があったからなのか。
先生の口ぶりから鑑みるに、先生はあの奇妙な子供を見ていないようだ。ということは、あれは僕の夢だったのだろうか。そうだ、そうに違いない。そうでないと、怖くて眠れない。
僕もカフェオレのプルタブを開けて、こくりと喉を湿らせる。
「僕を引きずって連れてくるの、重かったですよね」
「まあ。でもほんの数メートルの距離だから」
先生がしれっと答える。
やはりおかしい。どれだけ歩いても、進んでも戻っても帰れなかったのに、ほんの数メートルでこの通りに出られたなんて。僕は酔っ払ってはいなかったから、感覚は正常だったはずだ。時空が歪んでいたとしか思えない。
もしかして、と僕は考えた。思い出したくもないけれど、あの顔が抉れた子供が、僕の悪夢ではなく現実だとしたら。
僕はあれが住み着く異界に閉じ込められていたのだろうか。そして先生があれを退治してくれたから、帰ってこられた。
……なんて、先生のホラー小説の読みすぎだろうか。
先生は缶を煽り、改めて、その涼しげな瞳を僕に向けた。
「いいことを思いついたぞ。小説家くん。君、私のアシスタントにならないか?」
それは、唐突な問いかけだった。
呆然として声が出ない僕に、先生の横顔が微笑む。
「実は私ね、執筆に没頭させてくれるための協力者を探してたんだ。編集のムクちゃんがある程度は手伝ってくれるけど、出版社の編集さんって激務だから、そうそうなんでもしてくれるわけじゃない」
「はあ」
「そこへ君が現れた。君は私の作品のファンなんだろう? フリーターって言ってたし、ムクちゃんに比べれば暇そうじゃんな」
これは、チャンスなのではないか。
かの大人気作家、月日星麗華のアシスタントになれば、彼女の執筆の現場に立ち会える。人の心を掴むあの文章を生み出す秘密を、間近で見られる。
打ち震える僕を横目に、先生はもうひと声続けた。
「"作家は経験したことしか書けない"んだ。私が良いものを書くためにも、君の力を貸してほしい」
経験。先生の傍で経験を積み重ねることができたら、僕も、小説家として再デビューする日が来るかもしれない。
「アシスタント、やらせてください!」
「そう言ってくれると思ったよ」
満足げに目を細める先生の頬を、暁の空が照らす。彼女が唇をつけた缶には、「アルコール九%」の文字が躍っていた。
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