3
その帰り道。すっかり日が暮れた知らない町を、僕は俯きながら歩いていた。
憧れの先生と話せた。編集さんに認知されていた。作家として扱ってもらえた。そうして浮かれていたけれど、ふと冷静になったら死ぬほど恥ずかしかった。
方や天才の名を恣にする超人気作家、方や一発屋の現フリーター。売れっ子に作品作りのコツを教えてもらおうとした僕は、どれだけ惨めだろうか。
人がまばらな町が静かに暮れなずんでいく。とぼとぼと歩く僕に、声がかかった。
「そこの小僧。お前だ、お前」
声の方を見ると、黒い服に身を包んだ老婆がいた。道端に小さなテーブルを置いて、周りをカーテンで覆っている。テーブルの上には、水晶玉やカードや、カラフルな石が置かれていた。
老婆はずんぐりした体型に黒いドレスを纏い、頭にも黒いベールを被っていた。ベールから覗く目でぎょろっと僕を見て、への字に曲げた大きな口を開く。
「お前さん、悪霊に好かれるね」
占い師だ。見るからにインチキ臭い。関わらないよう、無視して立ち去ろうとしたのだが。
「失敗の連鎖で自信を失っているだろう。かつての成功を取り返そうと足掻けば足掻くほど、沈んでいく」
ドキッとした。賞を取って浮き立ち、それからは落ちぶれていく一方だった僕を、見透かされたようだった。
頼んでもいないのに、老婆は勝手に続けた。
「負の感情を抱えた人間には、悪いものが寄り付きやすい。悪いものは良い縁を切り、負を引き寄せる。そしてまたお前は負の感情を溜め込む。悪循環さ」
そうなのか。僕には悪いものが寄ってきているのか……?
「どうしたらいいんですか?」
足を止めてしまっていた僕に、老婆はニヤリとした。
「より詳しい占いを聞きたかったら、金を払いな」
「そうなりますよね」
不安を煽るだけ煽って、お金を毟り取るのが目的みたいだ。僕は冷静になって立ち去る。
老婆はまだ僕を帰すまいと、ジャラリと黒い石の数珠を突き出していた。
「蟻地獄を抜け出すには悪霊を祓うしかない。このパワーストーンを買いなさい。こっちの呪符もだ。これは玄関に置くと悪霊が入ってこられなくなる壺」
カーテンの中からいろいろ出してくるが、生憎僕はバイト暮らしのフリーターで、そんなものにお金を浪費する余裕はない。
これ以上話さないよう、早足で老婆から逃げた。
老婆を撒いて、僕は町の裏通りを歩いていた。
折角楽しみにしていたサイン会の日だというのに、こんな面倒そうな人に捕まるなんて運が悪い。しかも「悪霊に好かれる」なんて気味の悪いことまで言われた。
その上ここへきて、さらなる失敗が僕を襲っていた。
道に迷ったのである。
駅に向かっていたはずなのに、老婆から逃げるのに夢中で道を間違えた。地図を見ようにもスマホは電池が切れており、充電させてくれそうな店は見当たらない。
交番、せめてコンビニで地図でも見せてもらえないかと探し歩くも、知らない町というのは勝手が分からないもので、それすら見つけられない。
気がついたら、僕は人けのない路地に迷い込んでいた。ブロック塀と建物の壁がひたすら続いている。建物から人の気配は感じられず、割れた窓の向こうは漆黒に見えた。日が暮れているせいもあって、よく観察もできないが。
「ここどこ?」
スマホの電池がないから、現在の時刻すら分からない。体感では、深夜零時を回っている。
せめて周辺に人がいた時点で、恥を忍んで道を訊けばよかった。今はもう人影どころか野良猫一匹おらず、進んでも戻っても景色が変わらない。
景色が変わらない?
どうしてだろう、来た道を戻っても、元の場所に出られない。僕はどこへ向かっているのだろう。
ひたすら歩き続け、いよいよ時間の感覚がなくなった頃。
数メートル先のブロック塀の影に、人らしき輪郭が見えた。助かった、ようやく道を訊ねられる。
「すみませーん」
僕は呼びかけながら駆け寄った。人影はこちらに向かってきている。背丈からして子供のようだ。子供に道を訊いたら変質者扱いされるかもしれないが、この状況では背に腹は代えられない。
「道に迷ってしまいまして。駅はどっちですか?」
そう口にして、待てよと足を止めた。
どうしてこんな夜中に、子供がひとりで外にいるのだろう。この子供のほうにも、なにかのっぴきならない事情があるのでは……。
子供のシルエットは止まらずに進んでくる。ぽんぽんと跳ねた歩き方だ。片足で跳ねて着地して、もう片足で跳ねて着地する。
なんか、おかしくないか?
全身にぞわっと鳥肌が立つ。なにかがおかしい。気持ち悪い。あれに近づいてはいけない。脳が危険信号を出す。
僕の後ずさりよりも、子供の影が近づいてくるほうがずっと早かった。だんだんとその姿が見えてくる。
乱れた頭に、痩せた素足。服は、孔をあけただけの麻袋だろうか。その麻袋から頭と脚だけ出しており、腕は見えない。
ぽん、ぽん、と弾んで歩く、その子供の顔は。
「ちょーだい」
顔が、なかった。ただ丸く、大きな穴があるだけだ。
「え、え? へ?」
僕には間抜けな声を出すしかできなかった。
子供はみるみる近づいてくる。何度見ても顔がない。目と鼻と口があるべき場所を、丸くくり抜かれている。
その削ぎ落とされたあとの窪みから、鼻にかかった拙い声が響いてくる。
「ちょーだい、ちょーだい」
「わ、あ、わああ!」
僕は子供に背を向け、弾かれるように駆け出した。なにか分からないが、あれに関わってはいけない。
子供は変わらないペースで、飛び跳ねて追いかけてくる。僕は必死に走って逃げた。景色はやはり変わらない。
全力疾走しているというのに、子供を振り切れない。それどころか、先程よりも声が近くなっている。
「ちょーだいちょーだいちょーだい」
強烈な恐怖が、僕の全身を支配している。
僕はこんなに走っているのに、相手の速度は変わらないはずなのに、どうして距離が縮まっていくのか。
ひたっと、腰になにかが触れた。
「ちょーだい、チョーダイ、チョーダイ、ヂョーダィ」
子供の頭だ。焦げ付いたような黒い顔が、僕を見上げる。
ぼろぼろの麻袋は黴びて黒くなって、僕にすり寄ってくるその顔からは肉の腐った匂いがする。
「チョオダィ」
もう、悲鳴すら出せなかった。なにも分からなかった。僕はただ、憧れの作家のサイン会に来ただけなのに。どうして――。
そのときだ。
ビシャッと、子供の窪んだ顔面に、滝が注がれた。
僕の服にも水滴が飛ぶ。僕は目を疑って、顔を上げた。そこに立っていたのは。
「どーだ、満足か」
黒い髪に抜群のスタイル。凛とした眼差し。手には逆さにした缶チューハイ。
昼間にあった、美しい小説家。僕の憧れの人。
「月日星……麗華先生?」
どうしてこの人が、ここに?
しかし昼に見たその人とはまるで雰囲気が違う。
「よく見りゃガキじゃねえか。わははは」
顔を真っ赤にして豪快に笑い、缶チューハイを煽る。しかし自らひっくり返して中身が空だったために、頭上でくしゃっと缶を握り潰した。
「こーんな小せえお子様が『チューハイ頂戴』とは気が早えわ。はははは」
いや、「チューハイ頂戴」ではなくて、「頂戴、頂戴」だと思う……それはさておき、この人は「顔がない」という点は全く気にしていない。
子供の方は、凹んだ顔に酒の水溜まりを作って立ち尽くしている。
やがて子供は、「おえっ」とえずいてしゃがみこんだ。子供が僕から離れた瞬間、僕はさっと飛び退く。
「に、逃げなきゃ」
しかし、腰に力が入らない。走り疲れたせいもあってか、膝が笑って動けなかった。
子供が地べたでもがいている。先生は缶から滴る僅かな雫を子供に垂らし、ケラケラ笑っている。
「さーて、行くかあ」
先生が歩き出した。僕は置いていかれまいと、震える脚で追いかける。
「ま、待って」
と、彼女の腕を掴むと。
先生は即座に潰れた缶を放り投げ、僕の腕を引っ掴んだ。そして息もつかせぬ間に僕の正面に回り込み、みぞおちに拳を叩き込む。
「ぐっ!」
なんで? なんでいきなり殴られた?
僕は呻き声を上げたのち、静かに意識を失った。
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