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麗華先生に出会う前。
「お兄ちゃん、いつまでそうしてるの? お母さん心配してるよ」
高校生の妹からの電話に、僕は変な汗を滲ませていた。
「お父さんが、『今年上手く行かなかったら帰ってこい』って。ちゃんと就職先探したほうがいいよ」
「うん、うん、大丈夫。今、新作書いてるとこ。今度こそ売れるから、期待しててよ」
僕は日が落ちた暗い部屋で、僕は半ば強引に電話を切った。
古い型のスマホを枕の横には放り、ぼすっと横になる。妹は多分、僕の下手な嘘を見抜いているだろう。本当は一文字も書けていないのは、言わなくても分かるはずだ。
蝉が鳴きはじめた。僕は布団の上で脚を曲げて、読みかけの本を手に取る。
「読まなきゃ……」
都心からはだいぶ離れた住宅街にある、単身世帯向けの集合住宅。それなりに新しい建物で防犯設備もしっかりしているが、僻地だから比較的家賃が安い。大学への進学を機に暮らしはじめた、僕の城。
枕の横には積み上げた未読本の山。本棚に突き刺した本の背表紙には「小鳩ひかる」の名前が刻まれている。だが、これを開く日は恐らくもう来ない。
「読まなきゃ……そして、書かなきゃ……」
僕、小鳩ひかるは小説家である。否、元・小説家というべきか。
三年前、まだ大学生だった僕は、文芸サークルでなんとなく描いた青春恋愛小説で運良く賞を貰った。この作品は瞬く間に話題になり、書店で大展開され、それはそれは華々しく讃えられたものだった。
持て囃された僕は当然浮かれた。小説を書き続けて印税で生きていくつもりで、就活などせずに遊んで過ごした。
しかしその成功は、一瞬しかもたなかった。
一作目の人気に乗っかって二作目を出版したが、これが驚くほど売れなかったのである。話題性のない僕に魅力などなかったのだろう。出版社の担当さんに見放されて、僕のプロットは通らなくなった。
栄枯盛衰という言葉は知っているが、ここまであっという間に衰えるパターンは珍しいのではないかと思う。
それからというもの、僕はバイトで食いつなぐただのフリーターになった。家族からは定職に就くよう促され、ネットでは「一発屋」と嘲笑されている。
それでいて心のどこかに、自分はまだ作家であると思い込んでいる節がある。まだ返り咲いて、小説で一発逆転できるかもしれないと、作家の夢を捨てきれずにいる。
勉強のためにと、本を大量に買い込んで読みふけった。狭い部屋が本で埋もれて、自分の居場所がなくなるくらい。インプットし続けなれば、アウトプットもできない。人気の作家への嫉妬心など、通り越してしまってとっくにない。
自分に向いた作風を模索するために、あらゆるジャンルに手を出した。
そうして出会った一冊が、月日星麗華の作品だった。
「なんだ、これ」
ホラー小説は苦手だ。怖い話なんか大嫌いだ。勉強のためにしぶしぶ手に取っただけで、読みたい本ではない。はずだった。
それなのに僕は、取り憑かれたようにページを捲っていた。
「月日星麗華……」
この美しい名前の作家は何者なのか。どうしてこんな文章を紡ぎ出せるのか。彼女の目には、どんな景色が映っているのか――。
僕の心は麗華先生に奪われた。それはもう、作家でありたい気持ちを掻き消してしまうほどに。
以来、僕は先生の既刊を夢中で集め、僕が知らなかった頃の彼女の活動をネットで追いかけるようになった。
嘘みたいな名前は、ペンネームではなく本名。元々はネット上のブログサイトで小説を公開しており、それを見つけた編集者にスカウトされてデビュー。このサイトにすら本人のプロフィールは書かれておらず、素性は謎に包まれている。
彼女の本を集めるようになってしばらくした頃、僕は先生のサイン会の告知を見た。憧れの月日星麗華に会えるチャンスだ。
古参ファン曰く、先生は気まぐれな性格で、サイン会のオファーも気が乗らないと蹴ってしまうため、こういうイベントは稀だという。開催地は住んでいた町からは遠く離れていたが、この機会を逃すすべはなかった。
「次はー、鴉川ー、鴉川ー」
電車の車内アナウンスを聞いて、遠方の見知らぬ土地に降り立つ。サイン会の開催地、鴉川市は、中部地方にある山に囲まれた小さな田舎町だった。
先生のゆかりの地か作品のモデル地なのかと思いきや、どうも全く関係なく、単に先生が「たまたまやる気になった」からこの場所での開催になったそうだ。
書店に行列ができている。サイン会は大盛況だ。月日星麗華作品はあらゆる層に刺さるらしく、ファンに老若男女を問わない。たくさんいるファンのひとりとして、僕は出会いのきっかけとなった本と差し入れのお菓子を持って臨んだ。
僕は人混みの向こうに見えたその人を目にして、息が止まった。
艷やかな長い黒髪に、凛とした夜空色の瞳。細い肢体を包むのは、清潔感のある白いブラウス。
ひと目で分かった。あれが月日星麗華先生だ。ファンたちやスタッフとは、明らかにオーラが違う。あれが稀代の天才が放つ光だ。
詰めかけている凡人の中のひとりでしかない僕は、その存在感に圧倒されて、息をするのも忘れていた。
列が進んで、自分の番が来た。真正面には、憧れの先生がいる。僕を虜にしたあの文章は、この人の頭から生まれたのだ。
若く美しいその女性は、柔らかに目を細めた。
「どーもー。こんにちは」
儚げな佇まいとは裏腹に、のんびりと間延びした声で、僕に笑いかけてくる。僕は緊張でガクガクしながら、本を差し出した。
「ふぁ、ファンです。あっ、ここにいる人、みんなそうか。えっと、大好きです。これ、差し入れです」
「あは、ありがとね」
気合を入れて選んできたお洒落な焼き菓子を、先生の細い指が受け取る。色白な肌に、焼き菓子のパッケージの華やかなリボンが映えて、なんてきれいなのだろう。
「サイン……為書き、お願いしてもいいですか。小鳩ひかるっていいます」
「いいよ」
先生の手が僕の名前を刻む。ペンは左手で取られており、「ああ、左利きなんだ」と、そんな小さな情報をひとつ知ってぞくぞくする。
先生の横にいた若い男性が、僕の名前を繰り返した。
「小鳩ひかる? あの、文芸新人賞の?」
「ひぇっ!?」
僕は変な声を出して飛び上がった。
スーツに眼鏡の、すらっと背の高い男性だ。仕事のできる男の雰囲気が、全身から漂っている。首からは吊り下げ名札を下げている。『株式会社ツキトジ出版文芸編集部・椋田和明』……麗華先生の担当編集者とみた。
先生が声だけ彼に向ける。
「ん? ムクちゃん、知ってる人?」
「先生、ご存知ない? あの『恋は桜と共に』の小鳩ひかる」
そうだった、一応僕の名前は全国的に広がったし、すぐ消えたといえど、出版社の編集さんなら覚えていてもおかしくはない。自分が執筆から離れていたから忘れていただけで、名前を聞けば思い出す人もいるのだ。
編集の椋田さんは、僕の顔をまじまじと見つめた。
「同姓同名……じゃないな、本人だ。授賞式の映像で見た顔だ。私も読みましたよ、『コイサク』! 泣けました」
「恐縮です」
緊張に緊張が重なって、挙動不審になる。先生は僕と彼とを見比べて、ふうんと鼻を鳴らした。
「同業者か」
嬉しい。作家として扱ってもらえた。僕はどぎまぎして、早口になる。
「で、でも、今は全然書けてなくて、バイトを転々としてるフリーターです。同業者って言えるほど小説書いてないです」
「ほーん? なんで書かないの?」
「書けないんです。書きたいけど、僕の書くものなんて、必要とされてなくて」
言いながら、胃が痛くなった。こんなに大勢のファンがいて、どの作品も受けている先生からすれば、需要がないなんて悩みはない。「なんで書かないの?」と疑問にも思うだろう。
「先生のように、人を虜にするような強い引力……唯一無二の武器が、僕にもあればよかったんですけど」
僕は所詮、平凡な文章で平凡な物語しか描けない、凡人だった。
「あの、僕、本当はホラー小説苦手なんです。でも先生の文章には、魂を抜かれたみたいに惹きつけられるんです。苦手なはずなのにやめられない」
これは、聞かずにはいられなかった。
「どうしたらあんなふうに、人の心を掴む小説を書けるんですか」
「んー、そうだな」
先生が虚空を仰ぐ。
「経験、かな?」
「経験……」
「よく言うでしょ、"作家は経験したことしか書けない"って」
彼女は目を伏せ、ペンの先を本につけた。
「あんたも作家なら分かるでしょうけど、あれは『人を殺せ!』『異世界に飛び立て!』とか、そういう短絡的な意味じゃない。見知らぬ場所に置き去りにされる恐怖とか、圧倒的な存在への畏怖とか、愛する人を失う悲しみとか……そういうのを身をもって知っている人の表現は、知らずにいる人のそれとは深みも厚みも違う」
「それじゃあ先生も、先生のホラー小説に描いたような、怖い思いをしたんですか?」
と、僕が訊ねたときだった。椋田さんが口を挟んだ。
「小鳩先生。申し訳ありませんが、そろそろお時間です。今日のところはこのあたりで」
「あっ、すみません」
「んー、私もチンタラ書いてたのが悪かったわ。はい、小鳩センセ。またよろしくね」
先生は僕に、サイン本を手渡した。
ひらがなで書かれた「こばとくんへ」の文字は、案外ふにゃふにゃしていて、お世辞にもきれいな字とは言えなかった。
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