第3話  交渉

痛い、痛い、痛い。


 僕を叩かないで。


 もう悪いことしないから。


 ちゃんと言うことを聞くから。


 うるさくしないから。


 泣かないから。


 だから叩かないで。




「……………」


 涙が滲む目を擦る。


 腹の痛みが、目の前の母親の影によるものでないことが、瞼から入り込む光によって信憑性を増していく。


 これは夢なのだ。僕の母親はここにはいない。あの記憶も昔のものだ。今の母親では無い。


 幻影は、徐々に薄まり消えていく。


 早く起きよう。あんな夢は、夢とわかっていても見たくない。


 薄く、目を開ける。


 まだ叩かれている感触がある。これだけが妙にリアルだ。


「…志郎」


 僕の名前を呼んでいる。まだ夢の中のようだ。朝日を既に享受しているのに、まだ夢を見ている。


 うつつである。体を起こさねば夢から覚めないのか。


「賢志郎!」




 ゴッ




「がはっ」


 腹部にいいのが入った。どうやら、はたいていたのではなく蹴っていたようだ。おかげで全身が覚醒する。


「うぅん…」


 ベッドに入らず寝たので、体の節々が痛む。


 蹴られていたからかもしれないが、真偽を確かめる術は僕には無い。


 唸りながら目を開けると、透き通るような碧眼に見つめられていた。


 天女の羽衣を梳いたような白銀の髪が、重力に従って落ちている。その様子は、人類を超越した超自然的な何かを思わせたが、思わせただけで、具体的にイメージする想像力も教養も僕にはなかった。


 ただ、綺麗。


 そんな陳腐な言葉しか出てこなかった。


「綺麗なら良かったわい。」


 当たり前のように心を読まれているがもう気にしない。いつもの事だ。


「今日は早く起きてしまったのじゃ。だからお前も早く起きて飯を作るがよい。」


「パン?」


「今日はごはんのがいい」


「あぁ」


 この状況にここまで順応している僕も僕だが、少女も少女であろう。互いに得体が知れないという状況で屋根を共にした上に、このやり取りははっきり言って常軌を逸している。


 相手がまだ人間かどうかもわかっていないのだ。危険だ。何が起きる分からない。


 ひょっとしたら、自分はとんでもない事に首を突っ込んでしまっているのかもしれない。それこそ昨晩見たような、いかにもエイリアンと言うやつに追っかけ回される羽目になるかもしれないのだ。


 全て理性ではわかっていた。しかし、問題が眼前に来るまではとりあえず静観と言うのが、僕の人生観であり、ポリシーなのである。


 端的に換言すると、ただの馬鹿だ。


 少女に連れられるようにして、僕は体を起こし、キッチンへと赴いた。フローリングに触れた足は、いささか冷たかった。






「あ、そうだ。お前今日から毎日、夕方まで家でお留守番な。」


 半熟の黄身が乗った白飯に醤油をかけ、箸でそれらをかき混ぜながら言う。


 家が半壊したことで、学校側から二週間の登校停止、もとい登校猶予を頂いていた訳だが、それも昨日までである。


 僕、賢志郎は、れっきとした高校二年生であり、今日からその本文を全うする生活が再び始まるのである。


 僕としても正直、学校などには行きたくないが、折尾は僕のせいで人間が社会的な動物であるという正しい認識を自ら歪めようとしている。そろそろ、人であるための最低限度の生活というのを見せつける時ではないだろうか。


「僕は学校という社会的な場で、社会に溶け込む術を学んでくるんだ。だからその間、折尾はお留守番…」


 俺はそう言いかけ、手に持った茶碗から対面に座る折尾に視線を移す。


「えっ」


 飯を食い始めると食い終わるまで一言も発さない折尾が、「えっ」と言った。


 折尾の握っていた箸が床へ落ちる。


 当の本人はと言うと、目をまん丸に開けてこちらを凝視している。飯を見た瞬間から澱みなく動かされていた口は動きを止めて、目同様あんぐりと開かれていた。


 金縛りにでもあったのだろうか、可哀想に。


「おい、動けるか。どうした。」


 うつろな瞳で僕を見つめながら、ぷるぷるとくちびるを動かしている。


「お、お、お、お、」


「お?」


「おるすぼん」


 惜しい。ちょっと違う。ド田舎の名物お菓子みたいになっている。


「折るズボン」


 お前が七分丈を好きとか知らない。それにさらに離れた。多分わざとやっている。


 著しく知能が低下している。


 どうかしたのだろうか。


 僕は箸を置いて席を立ち、折尾の元へ駆け寄る。僕が目の前から消えても、目線はずらさず、現在は虚空を見つめている。目の前で手を振るが応答は無い。


 地雷でも踏んだか?


 こいつの中で侮辱されたと感じる言葉でもあったのだろうか。変なことは言ってないはずだが。いや待て、日本人にとっては交友的な関係を示すハンドサインでも、ある国の民族の人にとっては大いなる侮辱となるという話を聞いたことがある。僕にとって何気ない言葉でも、こいつにとってはそうでないことなど十二分に有りうる。


 思えば、気をつけなければならないのは当たり前の話だった。


 こいつが宇宙人かは分からないが、話しぶりからして少なくとも僕と同じ文化圏には属していないだろうし、僕の言葉がどういう風に伝わっているのかも分からない。


 そんな現状で、竹馬の友と交わすがごとく会話をするのは非常に危険だ。争いというのは、その多くが言葉によって始まる。この僕、賢志郎がこんな些細な誤爆によって銀河大戦の元凶になるなど、笑えない冗談である。


 とりあえず訂正せねばなるまい。何を言ってしまったのかは分からないが、全体的に取り消せば大丈夫だ。きっと。


「すまん折尾、冗談だ。忘れてくれ。ここ数秒のやり取りは全部悪い冗談。うそだ。嘘。」


 首が急にぐるっとこちらに回転する。


「ほんとか!?じゃあわしが一人でお留守番というのも嘘なんじゃな!?」


 ?


 このガキは何を言っている?


 透き通るような碧眼はてらてらと輝いている。


「お前、お留守番が嫌なのか?」


「嫌じゃ、絶対いや。」


「僕が何か言っちゃったとかじゃないの?」


「賢志郎が何か言ったのか?」


 少しでも真剣に悩んだ自分があほらしい。


 ただの小学生じゃないか。


「なんで嫌なんだ。」


「うっ」


 うっ、と言っている。


「ひ、暇だからじゃよ」


 明らかに目が泳いでいる。


 語調もやや上擦っている。


「あのボートみたいの、修理してればいいじゃないか。僕が居ない方が捗るんじゃないのか。」


「……っ」


 歯を食いしばり、悔しそうな顔をしている。


 元々悪い目付きがさらに悪くなっていく。


「寂しいのか?」


「…………。」


 目を瞑りながら、こくっと頷く。


 こいつの生態がいよいよ分からない。


 ひとりが怖いだって?


 なんて人間らしいやつだ。


 しかし学校にこいつを連れていく訳にはいかない。そもそも、僕は登校時おふざけを施していい身分の人間では無い。挨拶すら、仲の良い人間以外には聞かれない音量でするし、人目につかないよう休み時間は基本教室に居ない。誰も僕がいることを望んでいないからである。


 学生というのは基本、自分達の青春の形成に関与するもの以外、目に入っていないものである。もっと言うなら、自分の言動に反発しない人間には皆、何を言ってもいいと思っている(一部社会人になってもそう)。頭の中では嫌と思ってるとか、傷ついてるかもしれないとか、そういうことは考えない。たとえ少し頭をよぎったとしても気にしない。なぜなら反発してこないなら何を言ってもいいからだ。学生の間でしばしば、「ナメる」「ナメられる」などの事柄が重要視されるのは、自分は反発するぞ、なんでも言っていいわけじゃないぞ、ということを示さなければならないからである。学生は、自分より下だと判断したやつは友達になるか否かの選択肢から除外される。故に、クラスで友達がいないやつというのは、全員を舐めているやつか、全員に舐められているやつか、宇宙人だけ、ということになるのである。


 学校での人間関係の話題になった途端こうもあからさまにスイッチが入ると、僕が痛いやつだと思われかねないのでこの先は割愛させていただく。いやぁ、痛いやつだとバレなくてよかった。


「おぬし痛いな。」


 まあわかっていた。


 我に返ったところで、横道に逸れた件を謝罪しつつ本題に戻らせて頂くが、つまり僕は学校でおふざけして許される人じゃないんだよ、ということである。


 そんな僕が学校にこんな幼女を連れて行ってみろ、どんな騒ぎになると思う?


「なんの騒ぎにもならない。」


 正解。セリフと地の文で普通に会話が成立しているが、時間がもったいないのでその点についてはこれ以降触れない。是非ともご容赦ください。


 この少女が言う通り、なんの騒ぎにもならない。仮に僕が全裸で登校したとしても、なんの騒ぎにもならない。もちろん、先生は血眼で駆け寄ってくるだろうし、クラスメイトの女子なんかは、ラミエルのような悲鳴を上げて逃げ出すに違いない。ここで言う、「騒ぎにならない」と言うのは、「身内からの反応が無い」と言い換えることが出来る。つまり、彼らからしてみて僕が教室内で起こすアクションというのは全て、クラスメイトによる行動と捉えられていないのである。認識としては、学校に侵入してきた不審者みたいなものである。あくまで突如発生したイベントに過ぎず、一クラスメイトとして彼らに介入することは叶わない。なので、自分の行動を上から目線で批評されるくらいなら、自分は学園生活からは身を引くので、内輪だけで盛り上がってどうぞ。と、言うことなのである。


 クラスで目立たないように過ごしている人達の内の大半の行動メカニズムは以上の通りであり、それ以外は宇宙人である。


「よって、僕はお前を連れていかない。」


 言い切っていた。


 誇れるものではなかった。


 しかし連れていきたくないのは事実だ。


 本当に連れていきたくない。


 庭の作物を荒らしている、「動物」を見るような視線。


 僕は自分のことを下に見るような視線が大嫌いなのだ。


 プライドが高いつもりは無い。矜持のため、と言うよりは、別の種族を見るような、隔てた目線が嫌なのだ。水族館のガラスのように、薄氷一枚の幻想を与えてくれるが、事実、魚たちとの間には縮まることの無い距離、即物的な、種族的な距離がある。


 そんな目線が、嫌だった。


 ところで、


 あいつが突っ込んでこない。


 先程までなら、まるで僕が心の声を全部口に出す痛い奴かのごとく、レスをバックしてきていたというのに。


 視線を落とすと、既に折尾は椅子に座ってはいなかった。


 どこだ。


 どこに消えた。


 辺りを見回す。


 広い家だ。


 僕一人には、とてもじゃないが似つかわしくない。


 有り体に言うと、浮いている。


 一ヶ月にも満たない宇宙人との同居生活の中、あいつは既にこの家の一部になっていた。少なくとも、僕はそう思い込んでいた。だからこその、


 この、焦りだろう。


 一人暮らし歴が三年を突破し、久しく訪れていなかった孤独感が去来する。


「おい、どこ行った。」


 決して動揺を声に出すまいと、必死に平生を装う哀れな男の姿がそこにはあった。はなから何も無いより、一度与えられてから奪われた方が、絶望の度合いはより一層深いものになる。


 もとより人間かどうかも分からないのだ。突然現れたのなら、突然消えることもあろう。


 どこに向かうとも分からない足取りで、不釣り合いなだだっ広い居間をよろよろと横断する。


「賢志郎、どこへ行く。」


 ん?


 いま折尾の声がした。


 しかし姿は以前見当たらない。


 実態を捨てて情報の海にでも身を投じたのではあるまいな。


「ここじゃよ、ここ」


 声のする方に視線を落とすと、そこにはテーブルへ立てかけた、僕の通学カバンがあった。


 そしてやけにパンパンだった。


 持っていく物など特になかったはずだが。寝ぼけて適当に突っ込んだのだろうか?


「ち、ちがう、ちがう。わしわし」


 酷く間抜けな、それでいてこもったような声が聞こえる。それこそ、布かなんかを一枚へだてて話しているような。


 しゃがみこみ、カバンのチャックに手をかける。


 ゴソゴソ。


 カバンの形が変わる。


 中にいるやつが何やらじたばたやっているらしい。


 動悸はいつの間にやら治まっている。


 ジー………


 チャックを開いていく。


 半分くらい開いたところで何かに引っかかる。


「いたいっ!髪挟んでる!!戻して!ちょっと戻して!」







「お前、なにやってるんだ。」


「ほら、ぬしはこれを持って学校とやらに行くんじゃろうが。ならこれに身を隠すことが出来れば、わしも」


「学校に行けるって?」


 開いた口から覗く小さな顔を、必死に上下に振っている。


 思わずため息をつく。


 何故そこまで必死になるんだ。


「学校に行ったって、誰ともおしゃべりできないぞ。」


「賢志郎と話せば良いではないか。」


「話せるわけないだろ。」


「なぜじゃ」


「なぜってお前…」


 誰もお前のことを知らないからだよ。そしてお前が幼女だからだ。そしてお前が学校の生徒では無いからだ。理由を上げつらえばいくらでもある。


「だから、話すのはぬしとじゃと言っとるだろうが。わしも賢志郎も互いを知っとるんじゃから、なんの問題もなかろう。」


「僕ともダメだよ。」


「だからなんで」


「見つかると、まずいから…」


「見つかるとなぜまずい?」


「みんな、折尾のこと知らないから…」


「ん?知らないのに見つかったらまずいのか?普通逆では無いのかの?」


「逆?」


「皆がわしのことを知っておって、敵対意識を持たれていると言うなら話はわかる、が、知らないんじゃろう?なら関係ないでは無いか。それとも、学校に通学する人間は、全員が全員と交流があって、知らない人間がいると言うのが、極端に異常な事態ということなのか?」


「いや、そういう訳じゃ…」


 こいつと話していると、妙に丸め込まれている気がする。まあ言い負かそうという気持ちはなく、単純に疑問に思っただけなのだろうが。こいつがどんな文化形態の場から来たのか、未だ皆目見当もつかない。変なことを知っていたり、僕らからしてみれば当たり前のことを知らなかったりする。


 それにしても、さっきのこいつの態度。ただ寂しいというだけとは思えない。


 なにか、こう、別な。


 根源的な恐怖の色を感じた、ように見えた。


 気の所為かもしれないが。


「なら構わないのう、つれていけ」


 カバンの中で丸まりながら、自慢げな表情を浮かべている。


 全く、もうどうにでもなれだ。


 僕は、普段の5割増の重さになっている通学カバンを抱え、玄関の扉に手をかけた。


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