第2話 接触
「触手が私に迫ってくる。
逃げられる場所は、もはやない。
表面には緑色の血管が巡り、先端は獲物を捉えるため右往左往している。
未知に対する私の恐怖は、スプリンクラーの如く汗を吹き出す全身に表れていた。
あまりの気味の悪さに、私は思い切り目を瞑る。
その行為には、自分の命への諦観も含まれているように思えた。
ヌチ、、、
と、恐怖から逃げ惑う私を嘲笑うかのように、触手は全身に悪寒が走る音を立てた。
目の前で何が起きていているのかを知りたくなかった。
それと同時に、知らずにはいられないというような好奇心みたようなものが心に渦巻くのもわかっていた。
グチョ、、
音は既に私の顔と数十センチというところまで近づいてきている。
足元には、私の家族の亡骸が横たわっている。
私も、数刻後にはこうなってしまう。
汗が、
一滴。
落ちる。 その瞬間、 」
プツ
僕は、ボタンが沈んでしまうのではという程強くリモコンの電源ボタンをねじ押した。
先程の主人公を凌駕する程の汗が、僕の体にまとわりついている。気が向いたからと、ホラー映画など見ようと思った一時間前の僕が全ての元凶である。
真っ暗なテレビの液晶には、先程の化け物がぼんやりと映っている。あと数秒消すのが遅くなっていたらどうなっていたことだろう。確実に今月の電気代が倍近く跳ね上がるだろうことは、全ての部屋に灯る蛍光灯を見てもよくわかるであろう。
それにしてもくだらない。あんなものを嬉々として見ようと思う人間の気が知れない。全く時間を無駄にした。ストーリー性など皆無。キャラクターも弱い。何かどんでん返しでもあるとかと思えば、ただ気色悪いビジュアルで驚かすだけ。あんなことをされれば、人間なら怖いに決まっている。
などと現実逃避のため脳内で映画にケチをつけながら、ソファにうなだれる。
電気がついた部屋は、やけに広く感じられた。
置いてある家具や、間取り、この家の全てが、俺に似合っていない。
この家には、数年前まで僕の家族が一緒に住んでいたのだ。
しかし安心して欲しい。いなくなったとは言っても、事故で死んだとかそういう劇的なものでは無い。父の単身赴任をきっかけに家族仲が徐々に悪くなって、みんな出ていってしまっただけだ。今も生きている。
父なんかは、新しい女でも作っているのだろう。母は、妹を連れて出ていった。先程劇的では無いと言ったが、家庭崩壊など、劇的か理由がある方が余程いい。慢性的に、じわじわと壊れていくのは、子供の僕からすれば、ほとんど生き地獄であった。別居を提案したのも僕だ。妹はまだ1歳だった。キッチンへの出入口には、幼児用のゲートが着いていて、ゲートにプリントされた可愛らしい熊と、時折目が合う。
母はこの家にいるとあの男を思い出すから一緒に新しい家へ住もうと言ったが、僕はこの家が好きだったので、残りたいと言った。初めは渋っていた母だったが、高校生の僕がいない方が何かと軌道修正しやすいのではと助言すると、月一で連絡を寄越すことと、隣人に登校時と下校時に必ず挨拶することを条件に、1人で住むことを許してくれた。翌年で高校に上がるというのもあり、一人暮らしという言葉にもさほど抵抗がなかったためもあるだろう。
両親からは、月に1度仕送りがある。成人していないし、仕送りという言葉が正しいのかは知らないが、とりあえずお金には困らない。親共に、金に困っていた訳では無いので、僕に仕送りをしていながらも、割と快適に過ごしているではないだろうか。
金以外の部分にはかなり不満を感じているが、あれから3年、何とか生き抜いている。
「お前が食うのをもう少しセーブしたら、もう少し余裕も出るんだけど。」
「たわけ、これでも足りんくらいじゃわい。」
そう毒ずきながら、少女は僕の体の上で、長い白銀の髪をばっさばっさとはためかせている。まるでカーテンのようだった。
少女が僕の家に住み着いてから、早二週間が経過していた。天井に空いた穴は、ブルーシートをかけてそのままにしている。修繕などを依頼して、僕と少女の関係を勘ぐられでもしたら迷惑千万である。別に勘ぐられて困るようなことをしている訳では無いが、少女の正体が定かでなく、少女が通報を疎んでいる状況で、あまり彼女を人目に晒すのは、倫理上、サイエンスフィクション上、あまり得策では無いだろうと思っただけである。
少女は頑なに自分の素性を明かさない。そのかわり現状の生活に特に文句も言わない。今のように突っかかってくることもあるが、あくまで日常会話の延長線上であり、そこに改善を強要する意図は無い。今のところは、互いに平穏に暮らしている。
僕は体の上でじたばたしている少女を押さえつけながら言う。
「僕はインスタント食品は好きじゃないんだ。それが嫌なら貸してやった服を脱いで出ていけ。」
この二週間でこの少女の力量はある程度理解した。たとえ宇宙人であったとして、目から放射線ビームを発射し頭蓋を融解させたり、寝てる間にキャトルミューティレーションされたり、漫画や小説のごとく人間を極度に見下していたり、解読不能の言語、または言語以外のものでコミュニケーションを図ろうとしたり、そういういわゆる宇宙人的なことはしてこない。そして彼女が人間であったとして、かなりノリが良い方ということもわかってきた。人間固有の文化については分からない部分も多々あるようではあるが、深く追求はしてこない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているという言葉があるが、僕達が宇宙人を恐れるように、宇宙人側もまた、僕達宇宙人を恐れていたとしてもなんの不思議は無い。下調べをして侵略に来たのなら分かるが、状況から推察するに、こいつは俺の家に不時着したように思える。つまりこいつとしてもこの状況は想定外だったのだろう。現にこいつは、毎夜毎夜あの宇宙船と思しき遊体Xを修理している。僕には手伝ってやれることなどないので、近くで黙って見ているだけだ。
「そうじゃ、おぬし」
「ん?」
「ぬし、名前はなんという?」
「名前?」
「そうじゃ。人間は社会性の動物であるはずじゃが、ここ数日生活を共にしても、ぬしが同族と交流を持っている場面を、わしは一丁も見なかった。それ故、お前の個体識別名称がわからんのじゃ。いつまでも、『おまえ』とか『おぬし』とか言い続ける訳にもいかなかろう?」
なんと。気の回るやつだ。いつまでも主人公の名前が分からないと読者が混乱することまで察して、自然に名前を明らかにできる展開を作り上げた訳だ。
「別にそんなこと考えてないぞ」
考えてないらしい。
ん?なにか違和感が。まあいいか。
「賢志郎だよ、けんしろう。」
「じゃろうな」
「じゃろうな!?」
まるで見透かしていたようなことを言う。僕の見た目からは賢志郎などという清廉な名は浮かんでこないと思うが、自己評価と、他人からの評価は随分違っているものと聞いたことがある。今の場面はそれを上手く表した例と言えるだろう。
「にしても賢志郎か、悪くないの。」
「お褒めに預かって光栄だな。僕をそう呼ぶやつも、もう居ないけど。」
「良かったの、わしが呼んでやる。」
「呼ばなくていいよ。てか、お前は?お前の名前。」
「わしか?わしは特にない。」
「ないのか。」
「まあ厳密に言えばないこともないが、お前たちの社会体系の中で、それらの名前は一般的ではなかろう、ということじゃ。『22-ef』とか『uumo』とかじゃピンとこんじゃろう?」
「それは分かったけど、じゃあなんて呼べばいい。俺がつけてもいいのか?」
「そうじゃな、オリオと呼ぶが良い。」
「折尾?苗字か?」
「いや、個体名の方と思ってくれて構わん。」
「下の名前ってこと?」
「そうじゃな、ただ、わしにはこの星の血族がおらんから、血縁判別名称は今のところ無しじゃ。」
「苗字のこと?」
「うん」
この少女はどうやら、くどい言い回しが好きなようである。そういうのは僕も嫌いでは無いが、自分相手に使われると少しイラッと来る。年相応の言葉遣いをしてないやつを見るとなんだか腹立たしいというか痛々しいというか…
「嘘つけ」
そうだ、嘘である。僕はこういういかにも子供と言った女の子が、大人びた、高貴みた言葉遣いをするのがたまらなく好きなのである。清廉で由緒正しい精神を持っていながら、それに外見が追いついていない…
これ以上言うと具体的に特定されそうなのでここいらで自重させていただく。
いや待て、なんでまたバレている。
「お前さ、」
「ん?」
「超能力者なの?」
「なんじゃ?それ」
知らないのか。相変わらずこいつがどこまで僕たちの文明について理解があるのかが掴めない。賢志郎という名前はすんなり受け入れてたのに。
「じゃあ宇宙人?」
「それも知らん。」
「さっき見てた映画に出てきたみたいなやつ」
「どこをどう見たらあれに見える?」
そりゃそうだ。あの映画に出てきた宇宙人はあの外見以外にも多くの属性を有しているが、それをあの映画だけで人間の文明を知らんやつに伝えるのは不可能だろう。事実、こいつにはただの悪口として受け取られている。
「わしは人も殺さんし、殺せんよ。今はまだ、な。」
「なんだよその含みのある言い方。」
「じきにわかるわ、わからんかもしれんが。」
僕の体の上でモゾモゾしていた少女は途端に動きを止め、体から背中を離し、顔を僕の方へ向けた。
「賢志郎、ぬしにとって見れば、わからん方がいいのかもしれんのう。」
少女がそう発した後、僕ちの間には数刻の沈黙が訪れた。少女は何も話さなかったし、僕は何も話せなかったのだ。
その後僕達はそのままソファの上で眠りについた。
その夜は、落ち着いて眠ることの出来る、最後の夜だった。
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