炳として

十余一

炳として

「おかえりなさい、東助さん」

 人間に化けたオレが戸を開けると、老齢の女が出迎える。

 最初は、しょうもない悪戯のつもりだった。死んだはずの人間が現れたら、さぞかし驚くだろうと。それで腰でも抜かしたら腹の底から笑って、ついでに芋の一つでもかっぱらってやろうと思っていた。けれども、この女は耄碌もうろくでもしているのか、快くオレを受け入れた。そうして今では共に暮らしている。


 漁を終えたというていで、早めの昼食を摂る。麦飯につみれ汁、香の物。目の前の女は重齢で食が細ったか、それとも胃のでも患っているのか、ろくに食べもしない。代わりに、山盛りの麦飯をかっこむオレをニコニコと眺めている。いつものことながら少し落ち着かない。いったい何がそんなに楽しいのやら。

 しかし陸では汽車が走り、川には蒸気船が浮かぶこのご時世。山は拓かれ、街も煌々と照らされ、狐狸のたぐいには居心地が悪い。こうして旨い飯と暖かい寝床にありつけるのなら、この先もしばらく、この家に居座ってやってもいいと思った。畑を荒らして打ち据えられ、木のうろで寒さをしのいでいた頃よりも、よほど良い生活だ。


 老婆は後片付けを済ませると、あとは日がな一日、海を眺めていた。

 軒先へ出した椅子に腰かけ、まるで在りし日の幸せを追うかのように遠くへ目をやる。オレは他の人間に見つからぬよう、椅子の影に腰を降ろした。

 斜面に連なる家々、一直線に港へと下る坂道、そして果てしない紺碧の海。銀鱗に覆われていた港は、昼下がりともなれば静けさを取り戻す。陽射しはやわらかく穏やかだ。訪れる者もおらず、一人と一匹がそよと海風に吹かれる。

 ふいに隣から、ぽつりと言葉がこぼれた。

「わたし本当はね、あなたが漁に出るとき不安で仕方がなかったのよ。だから妙見さまのところへおまいりして、そこからずっと海を眺めていたの」

 幾度となく聞いた話だ。このあたりの沖は難所らしく、昔から事故が起こることも珍しくなかった。出港する夫を見送る妻は心配で堪らなかったのだろう。一際見晴らしの良い神社へ赴き、そこから祈り見守る日々は想像に難くない。

「昇る朝日を背負い、大漁旗をはためかせ帰ってくるあなたの笑顔、五十海里マイル離れていたって見えたわ」

 何度聞いても莫迦々々しく思う。そんなに遠くから見えるはずがない。

 けれども老女は、枯れ木のような顔をさらにしわくちゃにして笑う。無事に帰ってきたことへの安堵、愛する夫への信頼、喜びに満ちた過日の思い出。そういったものが目尻や口元のしわに深々と刻まれているのかもしれない。

「それで、坂道を転がるように駆け抜けて、迎えにきてくれたのだよね」

 オレは話を合わせ、いつか聞いた彼女の思い出を返した。かつての故人のように輝く笑顔を浮かべられているだろうか。オレは少しばかり不安になるが、彼女はうなずき顔をほころばせてくれた。

「ちゃんと帰ってきてくれて、ありがとう。東助さん」

 きっと、彼女の中で一番の光を放つ記憶なのだろう。長く歩む人生において、他の何を落としてもこれだけは忘れない。忘れることなど、到底できようもない。東助の話をするとき、彼女の瞳もまた、陽光を照りかえす海のように煌めいていた。


 空が茜色に染まる頃、彼女の首がこくりと傾く。

「風が冷たい。そろそろ部屋に戻ろう」

「……、ええ。そうね」

 体調は大丈夫かと尋ねると、か細い声でひどく眠いのだと返ってきた。布団を敷いてやると普段と変わらない調子で「おやすみなさい」と言う。そうして穏やかな顔で眠りにつき、再び目を開くことはなかった。

 鮮烈な輝きに魅せられたこの人は、最期まで幸せだったろうか。

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