表裏

間 敷

表裏

 誰も居ないことは分かっていた。

 いちおうノックをして、演劇部にあてがわれた部室を覗き見る。ミーティング用の長机とホワイトボード。部室での活動が主ではないから室内はごく簡素だ。演劇部らしいのは、机の上に脚本が置かれていることくらいか。稽古は体育館で行うため、部員もあまりここには来ない。

 校舎の四階、西の端。

 格好の溜まり場になるポテンシャルは秘めているが、この部屋にエアコンが設置されない限り誰も寄り付かないだろう。今も無人だ。

 だからここに来た。

 僕は小さく頷き、ここなら大丈夫です、と後ろの人物を室内に通した。

 その人のことはよく知らなかった。ただ、人気のないところできょうだいに伝えたいことがあると。僕はその人よりも、着ている服のブランドのほうがよく知っていた。黒地のカジュアルスーツには、よく見ると控えめな花柄がプリントされている。そして同じく黒の手袋を着用したその手で運ぶのは、やけに大きなボストンバッグ。

 僕が「何が入ってるんですか」とバッグを指差すと、彼も同じようにバッグを持ち上げて指差した。


「空っぽだよ」


 ヒヤリとした。すぐにでも職員室へ行き、教員に対応を代わるべきだと思った。さすまたの出番だ。


「スーツと手袋、暑くないですか」

「うん、暑くはないけど室内でこんなに着込んでいたら変だよな。椅子借りていい?」

「どうぞ」


 この場を去る口実ならあった。僕には部活動がある。今は部活の時間だ。やらねばならないことがある。たとえ今は一本も作品を完成させたことがない脚本係見習いでも。現場に居なきゃいけない。みんなで作品を作るのだから。僕はそう思いたいのだから。


 ドアに向かい半歩進むと、彼も同じだけ移動する。じりじりと同一の距離を保つ。僕の動きを真似ているのだ。ためしに、少しだけ腕を持ち上げた。それ以上近づくなという制止の意図もあった。彼も腕を上げた。あちらの場合は敵意がないことをアピールするつもりだろう。鏡写し理論なんて小手先の人心掌握術を駆使するあたり、なおさら不審だ。


 それでも学外者をここまで案内したのは、同じ演劇部の各務(かがみ)先輩のお兄さんだと聞いたからだ──「そんなにかしこまらなくても、僕らの仲だろう」


 言われてみれば面影があるし、そういえばつい二日前も各務先輩と一緒の下校途中にすれ違って軽く会話をした──「最近も会ったの、覚えてない?」


 ……たしかに僕らはお互いに名前を知っていた。彼が僕を大輔くんと呼び、僕が彼を映二さんと呼ぶ──「そうそう、昔からね。懐かしいなぁ」


 じつをいうと映二さんとは幼い頃よく遊んだ覚えが、ない。いやある。思い出せないだけで。いや無い。無いところに生えた。僕の思い出に人一人分が割り入ってくる。染み込んでくる。馴染んでくる。旧知という情報を出発点に個別の記憶が出来上がってゆく──「まあそうだね。例えば〈夢の記憶〉と〈記憶の夢〉の区別がつかないなんてことと同じ、思い出になってしまえば、事実でも虚構でも関係がない領域だよ、記憶というのは。不思議だね」


 じゃあ、もしこれが本当なら、僕の兄さんはどこなんだ。居ない、最初から、どうして。在る、たった今、どうして──「そうか、キミにも兄が居たか。だから立像にノイズが混じっていたんだな。きっと脳にとって過去はそこまで重要ではないのだろうね。現行の処理速度を何より優先するから、臓器というものは。つまり臓器がない生物はわりあい時流に囚われず生きやすいんだ。だけどね、今からそういう生き物になるのは難しいだろう。私にもそれはわかる」


 僕と隣にもうひとり誰かいた。僕らは互いを覚えていないほど幼い。背の高い映二さんが陽光を遮り日陰をつくる。庭先の砂場、縁側で呼ぶ声、切り分けた西瓜の鋭角三角形。俺はいらないから二人で食べろと彼は言った。景色を焼く白い陽射し──「そうか。映二(わたし)は西瓜が嫌いだった。ところで大輔くんは表層可変人格から想像もできない過酷な宇宙に住んでいるんだな。共有記憶を逆手に矛盾を見出し、私の擬態幻質を打ち消すとは。キミの宇宙が死んでもおかしくないのに」


 僕? 保。区、ぼく、僕は僕だ、間違いない。分かったぞ。異物。逆再生、いや、逆生成と言うべき、脳裏をのたくる気持ちわるい感覚……切り離すんだ。外科医になれ。僕の両手と両眼はここだ。探せ。見えるし触れる。これは癌細胞だ──「大輔くん。大輔くん。声が聞こえないのか。インナーユニヴァースが向自的な自己保全を試みている。記憶を摘出するつもりか」


……──「やめるんだ。キミ自身を攻撃するな。論理に守られた対時核を傷つけてしまうかもしれないから」


 映二さんは……。

 微笑むと左目の下の皺が深くなる。僕の兄もそうだった。僕の兄さんはどこへ行ったんだ。この人は各務先輩のお兄さんだ。じゃあ僕の兄さんは。どうして、思い出そうとすると思い浮かぶ姿形が“同じ”なんだ。

 このひとは、誰だ?

 

「なあ大輔くん。妹はまだかなあ」

 

 思考が遮られ、おもむろに目の前になにか模様が描かれたものを突き出された。目の前すぎてよく見えない。手のひら。模様じゃなく、光る、指紋だ。ちらちらと動く。なんで手のひらに刺青なんかあるんだ。いや、さっきハンズアップした時には無かったじゃないか。

 思わず目を疑う。彼の手のひらだけじゃない。光の走る奇妙な紋様だらけだ。部室の壁一面、床、天井、窓の外。空の色や街路樹まで。

 けど、それらは一瞬にして消えた。


「おーい。ぼうっとしているけど、平気かい」

「あ、各務……茉侑先輩、もうすぐここに来るそうなので」


 咄嗟に嘘をついた。会わせちゃいけないと思った。

 だけどたぶん、それがバレた。


「そう、よかった」


 映二さんが笑い、僕はいよいよ怪しんで、豚テキの焼き加減を踏まえナイフとフォークの憎悪を選んだ。

 その瞬間、轟音に耳と脳が支配される。

 目覚ましと発車ベルが鳴り止まない。メーデーだ。ラッパだ。あとなんか、デコったトラックが流しがちな爆音の演歌だ。鳴り止まない。なにも考えられない。

 喧しいモーニングコールを切るため窓を開けた。並ばない握手会を賛美するように、壇上から身を乗り出して有象無象を黙らせるように、窓枠に足をかけた。とにかくここから降り、この場を離れ、飛びたかった。なにか大声で叫ぶ映二さんに引き戻され、ハッとした。


「ごめん」


 椅子が倒れている。映二さんも床に尻餅をついている。何に対して謝ったのかわからないその声は映二さんのもので、見上げた顔もおそらくは。だけど彼は、僕の知らない笑い方で笑っていた。映二さんとも違う、遠い記憶の僕の兄さんとも違う、それは烏賊だった、真綿のトンチキが僕の頭をまた苦しめた。こんなの無茶だ。なんでカリカリ梅をカーレースで優勝させなきゃいけないんだ。

 タコス。タコスタコス。人権侵害のデスペラードかよ。権利が無い。

 七光りを隠して立ちあがろうとした。ふらつく。体調不良でもなんでもいい、とにかくこの場を一刻も早く埋め尽くす可愛いヨークシャーテリア。畜生、僕は大真面目だ。チワワも柴犬もパグも好きなんだ。くそ、どうして! 犬!


「すみません……僕、帰らないと」

「顔色が悪いよ。一人で帰れる?」

「大丈夫」


 紫色の音楽室に青いマヨネーズで光線を描くことは許されない、道理に反するから。どう考えてもおかしいから。アイツはきっと、アイツがきっと、何かした。

 不審者を放置するのは気が引けたが、助けを呼ばないといけない。校庭にはジュリアスおじさん。立派なカイゼル髭だけどあの人じゃ解決できない。猫の子が葉の雫を吸う。猫でもダメだ。そう、この事態に対応できるひとじゃないとダメだ。

 バンコクのはるか空論では各務さんを胴上げした数名が夜通し影送りをしているはずだ。

 居た。バインミー。

 僕は息急き切って体育館を突っ切る。一も二もなく、ステージが空くのを待機しながら音声をチェックしていた軽音部のスタンドマイクを引っ掻いたために、全員が溶けかけたソフトクリームみたいな顔になった。


「すみません、各務先輩…の、お兄さんが、部室にいるんですけど」

「また?」


 また? 鸚鵡返ししてしまう。そんなのイーグルスだ。僕が彼を連れてきたのは今日が初めてだ。

 各務先輩はたらこふりかけをゆっくり逆さまにし、石橋を叩いて割った。


「もう来ないはずなのに……境(さかい)くん、なにか言われた?」

「場所が分からないっていうから、案内して」

「分からないわけないと思うけどなあ。どんな人だった?」

「うーんと、黒いスーツと手袋、空のボストンバッグ、肩までの黒髪で、僕より背が高い。笑うとこう、ピッと目の下に皺ができる。ちょっと鼻が大きい」

「後半は人相描き向きの情報だけど。よく逃げてこれたね」


 やっぱり、汁なし担々麺だよな。沈黙に耐えきれず場にそぐわない笑みを浮かべてしまう。


「えっと、分からないふりをしてその辺の生徒を捕まえて学内に入れてもらうほうが楽だったんじゃ……」

「怪しまれるだけで意味ないような気が」

「てかさ、そいつ今校内に居んの? 怖」


 場が完全に沈黙した。煮麺。


「わかったよ、境くん。ありがとう。とりあえず、君はつかれやすいんだからもう帰って休まないと」


 各務先輩が壇上から飛び降り、黒いコートを翻す。真夏なのに夢。いや、あれは舞台衣装だ。

 先輩は今、往年の心霊小説を基にしたシナリオで霊媒師の役柄を務めている。

 僕がへべれけで、鼻ちょうちんと瓢箪の違いも分からないばっかりに、稽古を中断させてしまうのが申し訳なかった。アロハシャツに海パン、極め付けは首にかけたハイビスカスのレイ。その場に居るのも気まずかった。どうせ部長の各務先輩が戻るまでは誰もセントラルタワーズから夜景を一望できない。

 早足で彼女を追う。西棟の渡り廊下を進みながら先輩はロケットランチャーを素早く装備してゆく。


「わたし一人で大丈夫だよ? 確認して、本当に“お兄ちゃん”だったら帰ってって言うだけだし」

「いや、その……」


 飛騨名物漬物ステーキをうまく咀嚼できないのがもどかしい。


「まあ、そうだよね。センセーたち呼ばないとおかしいよね。でも大丈夫だから。今の境くんの状態だったら、見られても平気かな。こんな言い方、ちょっと申し訳ないけど」

「それは、カリガリ博士? マルゲリータ」

「うーん、どっちかというとストレンジラブ博士。そしてペペロンチーノ。大丈夫だよ、この妙ちきりんな舞台もすぐ元に戻すからね」

「アーリオ・オーリオ・エ?」


 各務先輩はフラダンスの足運びで四階の廊下を突き進み、演劇部部室の前で仁王立ちした。中からはなんの音もしない。気配もない。諦めて帰ったのかもしれない。でも僕はハワイアンなままだ。締まりがない。室内なのでサングラスは外す。


「境くんが急いで伝えに来てくれてよかったよ。わたしも影響を受け始めてる。見て、わたし貝殻が好きなんだ」


 きれいな白い貝殻のレイは各務先輩によく似合っていた。戸を開けると、その貝殻が突如音を立ててひび割れた。割れて、欠けて、砕けた。光は闇に、アロハシャツはカッターシャツに。

 ホワイトボードが漆黒に塗り替えられていた。デイタラボッチの喉の奥を見た。窓の向こうには混濁した橙と紫の、巨大な渦巻きを呈した空が広がっている。闇から吹き出す、悪寒の走るような強風が吹き、僕らは思わず後ずさった。

 逃げようとすると、カップ焼きそばの水を切るみたいに床が傾斜した。スライド式の戸が固く閉まり、計算された角度だと気付く。

 僕らの部室は傾いてゆく。先輩の手を取り雪崩のように押し寄せる机と椅子を避け、壁際の戸の窪みに掴まる。視界は揺れている。なのに微動だにしない、窓枠に腰掛ける人物を見た。

 彼は、姿だけは人間だ。僕の兄さんだ。そして、各務先輩の……


「ここへ来た訳を尋ねましょう、〈架空の兄〉よ」


 僕の思考は断ち切られる。大人びた声が誰のものかを理解するのに何拍も要した。

 僕が握っている片手。各務先輩のはずなのに、触れた肌から伝わってくる声の出し方はまったく別人のようだった。


「私は仕事で来たんだよ。終わったらすぐに立ち去るとも」

「あなたたちの仕事は必ずしも人のためになることばかりではない」

「それはお互いさまだよ、茉侑」


 僕は二人(一人と一体?)の会話を聞いていた。会話の中身はよく分からなかった。ただ、ヤツが先輩のことを「茉侑」と呼ぶのが、それはもうたいそう気に入らなかった。

 今、この舞台では、各務先輩は“各務茉侑”ではない。

 各務茉侑ならざる〈姉〉が喋っている。

 僕は〈彼女〉を知っている。

 物語の彼女は言う。


「時空越えの次元ボケで人違いをなさっているようですね」


 傾いた床の隅に、机や椅子の脚に踏まれて揉みくちゃになった紙の束が落ちている。あれは僕が書いた試作段階の脚本だ。

 内容は、寝苦しい夜の夢に出てきた〈荒野を旅する葡萄売りの娘〉が主人公の幻想物語だ。顧問と部長である各務先輩だけは内容を知っていた。テーマが難解で学園祭向きではない、というのが二人共通の批評だった。「結末が暗い、もっと希望のあるものを」と顧問が熱く述べたのに対して、各務先輩は「だったらシェイクスピアも無理ですね」とクールに切り捨てた。

「悲嘆の理由と経緯がもう少し具体的に分かりやすければ、多少説明的になっても文化祭の作品としては形になると思いますよ。二年の芥見くんなんて物語の読み込みにすごく情熱をかけてくれるし、一年の岩永さんとかこの世界観にバッチリハマりそう。シナリオや演出についてはOBの百々ヶ峰先輩にもアドバイスをもらえるよう頼んでみよう。舞台はみんなで作るものだから、脚本係が全部背負い込んで、独りで描き切ろうとしなくていいんだよ、境くん」


 正しい記憶を思い出し、僕にかかった妙ちきりんな呪いが解けた。

「おかしいな」と兄が言う。なにもおかしくなどない。

 今、各務先輩が演じているのは、〈幻視の姉〉だ。彼女と〈架空の兄〉とが、互いの責務を巡って対峙するシーンだ。


 彼女はするりと僕の手を振り解き、傾斜によって水平になった壁に降り立った。黒いコートを脱ぎ去ると、その下にはいつのまにか上下白のスーツを纏っている。その格好も相まって法廷のような厳粛さで、彼女は右手を兄に向かって伸ばした。


「あなた、記憶の鏡写しを使ったのではありませんか?」

「というと」

「存在しない記憶を、この子に共通の体験として思い込ませたのでしょう。だから彼は、各務茉侑の兄だからと油断して見ず知らずのあなたを部室へ案内した」

「私は責務を果たそうとしているだけだよ。遍く弟妹達を〈安心〉させる以外のことに、興味はない」

「まさかあなたが行使する〈安心〉が、あなた自身の魅力によるものだと思ってはいないでしょう。そう思い込むのも仕方のないことですが、自らが脅威となるかもしれないとは、考えもしなかったようですね」


 姉が握り潰す手の動作で、兄の首を締めるように、襟元を掴む。もちろん動きだけだ。離れているから、実際には触れていない。けれど兄は驚き強張った表情で、引き上げられた首元に手をやる。


 タイミング、照度、位置取り、姿勢、呼吸。

 完璧だった。

 各務先輩、あの脚本を暗記してくれたんだ。もちろん同じ台詞ではないけど、台本を踏襲した言葉選びと動きをしている。物語の要となる台詞やト書きはまず頭に叩き込む、と以前先輩が言っていたのを思い出す。


 姉が腕を振り抜き、兄を壁際に叩きつける。本当に痛そうな音がする。何度も繰り返す。細い腕の動きに合わせて、大人の男性の身体が持ち上がる。

 僕は自分の脚本が誰かに演じられたところをまだ見たことがない。実際に演技を見ると、細身の女性がこういうことをするのはちょっと無茶だよなと思ったりする。これは人智を超えた〈兄〉と〈姉〉の兄姉喧嘩だから非常識でナンボだが、想像と実際の光景では納得と違和感の真実みがやはり違う。新しい発見がある。


 窓ガラスに罅が入る。世界を司るメインコンピュータ、つまり脳みその処理速度があからさまに下がって、視界がカクつき乱れた。体温も低下するものなのだろうか。僕は寒くて、今度はマフラーを巻いていた。

 僕の夢見る力はここらが限界らしい。


 きっと人間は、意識と身体を現実に置いてこそ幻想と向き合うことができる。

 幻想。それは期待。あるいは願望、憧憬、夢想、懐古、停滞、悪夢。おしなべて底なし沼。

 自分の限界や理想への遠さから、いとも簡単に目を逸らせる。改変できるし、めちゃくちゃに破壊もできる。現実なんて簡単に見ないふりができる。

 だけどそれも現実の有り得ないどうしようもなさ、平凡さ、変容のなさ、頑固なまでの存在強度があるからこそだ。

 強く地面を踏み締めると、僕は僕が居るところにしか居ないと分かる。変われない自分を前提として幻想文学に逃げてきた。自分の抜け殻しか連れてこなかった。抜け殻に花は咲かない。実は生らない。自分自身を置き去りにして、僕が本当に行きたいところ、見たい景色に辿り着くことはなかった。


 僕はレースに負けたカリカリ梅だ。つまり、切磋琢磨する環境から逃げて、しわしわになった、しょっぱい経歴の持ち主だ。

 だから虚飾や偽りを述べるのは止そう。

 高校を卒業してしまった僕は、あの作品を各務先輩たちと共に形にはできない。

 まだ大学の演劇サークルを訪ねてもいない僕は、あの作品を引きずったままだ。


 破裂音。

 姉が兄を持ち上げて、空に向かって投げたのだ。ドーム状の夜空に兄の背が叩きつけられる。

 とうとうガラス質の干渉壁が割れ、煌めく破片が雨のように降り注ぐ。

 架空の兄の声と姿が、幾つかの破片に映っていた。


〈キミが安らぎを求めたのだよ〉

〈だから私は来たんだ〉


 架空の兄は諦めない。ひたすら己の責務を果たそうと、〈弟妹〉を幻想に閉じ込めようとする。

 だが、架空の兄はもう架空の兄として正体がつまびらかになったし、これ以上に頁の余白もない。現実を正しく生きる僕は、“ここ”でなにが起きようと動揺しない。これ以上語ることもないのだ。この場所はお終いに近づいている。


〈キミは、……誰だっけ〉


 ほら、僕は語り手として相応しくないからもう出ていけと言われている。

 降りしきるガラスの雨、歪んだ建物、斜めの視界。ハイヒールを脱ぎ捨て、僕のほうを一度だけ振り返り、窓枠を飛び越えて世界の埒外へと消える姉。

 最後まで完璧な各務先輩の演技。

 さよなら先輩。

 僕も、誰も居ない部室の光景を後にする。 

 もうここに居てはいけないから。

 幻想世界でうずくまる境大輔は居なくなり、現実世界で創作をする後楯海霧(うしろだてかいむ)が立脚する。


 その入れ替わりと同時に、上下が反転する。

 架空の兄は仰向けで、夜空に寝転がっている。


〈キミは、誰だったろう……私に頼み事をしたのは〉


 架空の兄は足元を見上げる。

 干渉壁の破られた視界は白く、どこでもなく、広い。

 粉々になったうち、ある程度面積を留めているものには、周囲の白や藍色の夜空の光、架空の兄の黒いスーツなどが映り込んでいる。

 鏡面は水溜まりのごとく、地面の轟きに合わせて小刻みに揺れている。破片と破片の一部が触れ合うと、接触部から溶解して一体となる。破片は大陸が形成されるように、徐々に繋がってゆく。

 鏡の挙動が気になるので立ち上がって地上へ降り、上下逆さまからとりあえず脱出した。

 すると、架空の兄の肩を叩くものがある。


「有難う、架空の兄よ。久しぶりに二人と話せた気がする」

「……そうか、頼み事をしたのはキミだった。思い出したよ」

「忘れるなよ」

「だけどすまない、映二。預かった言葉を伝えられなかったんだよ」

「それでも二人とも、夢から覚めることができただろ」

「今からでも伝えたら、彼らはまた再会できるんじゃないか」

「いや、いいんだ。やっぱり余計だよ。姉弟助け合って生きてほしいとは思うけどさ、それはこの世界を退場した俺の我儘だもんな」

 

 言いながら彼の輪郭は鏡に溶けてゆく。

 架空の兄は思う。これも一種の鏡写しの思考法、友人に言ってほしかった言葉を、目の前の鏡像に言わせているだけなのではと。


 無人になった夢の舞台をほんの一瞥して、空っぽのボストンバッグから銀のスーツケースを取り出す。

 人類皆薄命、記憶も然り。

 過ぎ去った物事は真実であろうと、まぼろしであろうと記憶になる。架空の兄は停まれない。ひとつの記憶の連続体として留まれない。時系列に沿う河川型ではなく、点としての記憶がちらばる星空型の意識なのだ。

 だから、次なる舞台へと天空で足を踏み切れば、後のことは既に記憶にない。

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表裏 間 敷 @awai

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