第二話 一打席勝負

 久保にとって、放課後のグラウンドに行くのは初めての経験だった。野球部の練習風景を見れば、何か未練を思い出してしまうかもしれない。そう思っていたからだ。


 グラウンドでは、ホームベースを中心に部員が各ポジションについている。ノッカーが打ったボールを、各々が捕っては一塁に送球していた。


「あたしのお兄ちゃんは、あそこ」


 まなが指さしたのは、グラウンドの片隅だった。そこには、黙々と投げ込む一人の右投手がいた。それを見た久保は驚き、小さく呟いた。


「……速いな」


 その投手は、捕手の構えたミットに正確に投げ込んでいく。球速は時速百四十キロメートルを超えており、弱小校には似合わぬ捕球音を響かせていた。


「おにいちゃーん、連れてきたよー!!」


 まながそう叫ぶと、その投手は二人のもとにやってきた。身長は百八十センチメートルを超えており、肩幅も平均より広い。久保は、まなが怒った理由を理解し始めた。


「やあ、君が久保君かい? 三年の滝川竜司たきがわりゅうじだ。悪いね、うちの妹が」


「そんな言い方ないでしょ!」


「話は聞いてるよ。俺が君と勝負すればいいんだろう?」


「はい。打ってみせます」


「おお、気合いが入っているな。けど、その前に頼みたいことがある」


「何ですか?」


「オレが勝ったら、野球部に入ってくれないか」


 竜司は、真っすぐ久保の目を見つめていた。その瞬間、久保は竜司が本気でプロを目指しているのだと理解した。そして、舐めた奴をしばいてやろうなどと考えていた自分を恥じた。


 久保は気持ちを改め、すうと息を吸った。不純な動機でなく、純粋に真剣勝負がしたい。そのうえで、この投手を打つ。一度は消えていた野球への情熱が、再び芽生え始めていた。


「分かりました。その代わり、僕が勝ったら入りませんから」


「ああ、一年の君に打たれるくらいではプロなんか無理だからな」


 久保はバットとヘルメットを借り受け、左打席に入った。各ポジションには野球部の面々が入っている。一打席勝負で、ヒットを打ったら久保の勝ちということになった。


「フェアじゃないから先に言っておく。俺の持ち球はフォークとカーブだ」


「分かりました。打ってみせます」


「おにーちゃん、頑張ってー!!」


 竜司は大きく振りかぶった。今どき珍しいワインドアップの豪快なフォーム。さらに大きく足をあげると、勢いよく初球を投じた。


 ボールはまっすぐホームベースに向かって突き進んでいく。久保はテイクバックを取り、打ちに行く。


「ストライク!!」


 審判役の部員が声をあげた。ボールはバットに当たることなく、捕手のミットに収まっていた。


「おにーちゃん、ナイスボール!!」


「竜司さん、ナイスボールでーす!」


「いいぞー、竜司ー!!」


 まなや他の部員たちが、竜司に声をかけた。彼の武器は、このキレのある直球である。球速と質を兼ね備えたそのストレートは、久保にとってそう簡単に打ち返せるものではなかった。


(やっぱり、速い……!)


 久保は勝負を受けたことを、少し後悔した。だが、打つと言った以上は真剣に打ち返さなければならない。ふうと息をつき、久保は改めて構えた。


 同じように振りかぶり、竜司が第二球を投じる。今度はインコースへのストレートだが、久保は打ちに行った。


 ガチンと音がして、ボールはファウルグラウンドに転がって行く。ボールに勢いはなく、すぐに止まってしまった。


「くそっ!!」


 久保は大きく声をあげ、バットを強く握った。完璧に捉えたイメージだったが、僅かにずれが生じていた。彼の予想以上に、竜司のストレートはキレていたのだ。


「うそ、当たった……」


 一方で、まなは驚いていた。彼女にとって、兄の直球を二度目でバットに当てられたのは初めてだったからだ。だが竜司はと言うと、動揺する素振りを見せずに捕手からボールを受け取った。


「ツーストライクだぞ、竜司ー!!」


「落ち着いていけー!!」


 まなの心配をよそに、他の部員たちは大声で竜司を盛り立てた。竜司はそれに応えることなく、真剣な眼差しで捕手のサインを見つめている。竜司という人間は、誰に対しても油断することを許さない。だから、直球をバットに当てられたことも想定内であったのだ。


 久保はというと、昔の頃の自分を取り戻していた。野球を心から愛し、相手との勝負を楽しんでいた頃の自分。野球部に入るか入らないか、そんなどうでもいいことは彼の心から消えていたのだ。


 再び打席に入り、バットを構える。竜司の方をじっと見て、大きい声をあげた。


「よっしゃこーい!!」


 それを見たまなは、心の底から驚いた。暗そうにバットを振っていた久保が、一生懸命に相手との対決を楽しんでいる。久保のまだ見ぬ一面を、ここに来て初めて知ることになったのだ。


「おにーちゃん、がんばってー!!」


 まなも大きい声をあげ、竜司を応援する。竜司は表情を変えないまま、第三球を投じた。


(来たっ……!)


 久保の視界には、山なりの軌道を描くボールが見え始めた。二球続けて直球を見せ、変化球で仕留める。この配球は想定内だった。久保は一拍おいてから、一気にバットを振った。


 カーンと良い音が響いた。打球はそのままグラウンドの端まで届きそうな勢いで、ライト方向に放物線を描いていく。その場にいた全員が、そちらを見つめていた。


「うわ、いった!」


「すげえ」


 部員たちは打球を見て次々に声を発した。


「やばっ!」


 まなもそう叫んだが、竜司と久保はじっと打球の行方を見つめていた。僅かにタイミングが早かったのか、打球はファウルグラウンドに切れて行った。


 竜司と久保はもう一度仕切り直す。竜司は四球目にストレートを投じたが、これは外に外れてボールとなった。


「おにーちゃん、落ち着いていこ!!」


 まなの叫びは、もう二人には聞こえていなかった。カウントはワンボールツーストライク。竜司に有利なことに変わりはない。


(フォークが来たら、お手上げだ)


 久保の中に、一つの不安があった。それは、竜司のフォークボールをまだ一球も見ていないことだった。大きく落ちるフォークなのか、それともゾーンに収まる小さいフォークなのか。ストレートもまともに打ち返せていないのに、どうしたもんかと悩んでいた。


 竜司もまた、悩んでいた。決めにいったカーブをほぼ完璧に捉えられてしまったのだ。このまま直球で押し切るか、フォークで決めに行くか。何度も捕手のサインに首を振った。


 やがてサインが決まった。互いに睨み合う二人は、グラウンドに異様な雰囲気を生み出していた。竜司は大きく振りかぶり、五球目を投じた。


 指から放たれたボールは、低い軌道を描いて進んでいく。久保はテイクバックをとり、スイングを開始した。


 ボールはホームベースの手前で、さらに低い軌道へと移っていく。そう、フォークボールだ。まなと竜司は、この瞬間に勝利を確信した。ワンバウンドしそうなフォークボールと、それに手を出す打者。どちらが優勢かと言えば、誰の目にも明らかだった。


(決まった……!)


 まなは心の中でガッツポーズをした。どうだ、私の兄はすごいだろう。久保になんて言ってやろうかと、頭の中で考えていた。


 ボールはそのままワンバウンドして、少し跳ね上がる。だが久保はスイングを止めようとはしない。バットを半ば縦にしながら、そのまますくいあげるように振り切った。


 竜司はその瞬間、目を見開いた。打ち取ったはずなのに、コツンという打球音が聞こえてきたからだ。


 打球がふらふらと舞い上がって行く。セカンドが下がり、ライトが前進してくる。久保は一塁方向に駆けながら、思わず右手を突き上げた。


 次の瞬間、野手の間に打球が落ちた。そのまま久保は一塁に到達し、大きな声をあげた。


「っしゃあ!!」


 それに対し、竜司は俯いていた。完璧に打ち取ったはずなのに、打者は一塁にいる。その現状を、どうしても受け入れがたかったのだ。


 まなはただ、呆気にとられていた。絶対と信じてきた兄の球が、たったの一打席でヒットゾーンに運ばれてしまったのだ。その事実に直面し、彼女の目には涙が浮かんできた。


 まなはマウンドに駆け寄った。竜司は俯いたままだったが、顔を上げた。もちろん、打たれたことはショックだった。だが、まなの前では兄のままでいようと、平静を保った。


「いやあ、打たれたな。俺の負けだよ」


「でも、おにいちゃんが…… あたし、おにいちゃんが、勝つって……!」


「ごめんな、まな。もっと練習しないとな」


 竜司は、兄の胸にすがりついて泣くまなを優しく慰めていた。


 久保は一塁からその光景を眺めていたが、ゆっくりとマウンドに歩き出した。それを見て、竜司は口を開いた。


「君の勝ちだよ、久保君。野球部には入らなくていい」


 竜司の言葉に対して、久保は首を振った。


「俺、入りますよ」


「「えっ??」」


 久保の返事に対し、竜司とまなは驚いた。


「たしかにヒットは打ったけど、あんなんじゃ反則ですよ。 ストレートを打ち返せないんじゃ、勝ったとは言えないです」


「じゃあ、入ってくれるのかい?」


「入りますよ。必ず、あなたをプロにしてみせます」


 久保はまっすぐ竜司を見つめ、そう答えた。もう一度、野球がしたい。こんなふうに、心が熱くなる勝負がしたいと望んだのだ。


「本当?入ってくれるの?」


 まなは泣き顔でそう問うた。


「ああ、入るよ。さっきは悪かったな」


「わたしこそ、ごめんね~!!」


 その言葉を聞き、さっきまで大泣きだったまなは笑顔になった。笑ったり泣いたり忙しい奴だな、竜司はそう言って笑った。


 その二人に対し、久保が改めて口を開いた。


「ただし、条件があります」


「なんだい?」


 竜司がそう問いかけると、久保は右手でボールを拾った。


「すいません、座っていただけますか」


 捕手にそう言うと、久保は振りかぶってボールを投げた。


 ボールは地面に強く叩きつけられ、てんてんと転がっていく。辛うじて捕手には届いたものの、とてもナイスボールとは呼べない投球だった。


「久保君、これって……」


 まなはそれを見て驚いたが、竜司の表情は一気に厳しいものに変わった。


「この通り、俺はボールを投げられません。だから――」


「俺が試合に出るのは、代打だけにしてください」

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