第28話 不安な俺、優しいお前

 正直なところ、書きたいことなんてない。応援弁士なんて初めてだし、文を書くこと自体もそれほど得意ではない。家に持ち帰って作業しているが、全く進まない。静かな部屋、穏やかに照らす月の光。なぜだか集中できずにいた。


「月宮のことか……」


 俺の人生の中で、人をこんなに観察したことはない。何を考えているか、何に興味を持っているか。それを知りたいと思ったのはいつぶりだろうか。月宮は本当に不思議な人間だ。だからこそ彼女は人気者であり続けるのだろう。


「もう寝るか……」


 時計は11時を指していた。あまり夜更かしして作業しても効率が悪いので、今日のところはこれで終わりにする。


「……」


 布団に入っても落ち着かない。この調子では眠れそうにないが、早く寝なければ明日に負担がかかる。作業のことなど忘れよう、明日やればいい。そう考えれば考えるほど、むしろ眠れなくなる。


「はあ……」


 なぜ眠れないのか。その答えは分かりきっているはずだが、言うのがはばかられた。昔の俺なら、バックレるなり、他の人に押し付けるなり、ずる賢い方法で逃げていただろう。今はそうではない。俺自身がしなければならないが、できないという葛藤に悩んでいる。そんな思いを抱くのは受験に奮闘していた小学生以来だ。いや、正確にはそれと違っている。努力の苦しみとも違う。これは一体何なんだ?


「はあ……」


 また大きなため息をつく。気づけば12時だった。このまま眠れないのだろうか。意外にも、そこからは意識を失うように眠りにつくことができた。


 ☆


 なんとか睡眠時間を確保できたが、朝は普段よりも眠かった。のろのろと歩いて支度をし、家を出る。駅まで歩いていく足が重い。なんとしても今日のうちに応援演説のヒントを得たいところだ。眠い体を動かしながら、月宮の待つ駅へ向かう。


「おはよっ! 日野くん」


 やはりそこに月宮はいた。いつもより長く待たせていたのに、それを感じさせない明るさだ。


「おはよう……」

「あれ? 今日はなんだか目が死んでるね。って、いつも通り?」


 さらっと失礼だ。殴りたくなるのを抑え……、というか殴る余裕もない。


「昨日はあまり寝れなかったんだ」

「あっ、もしかして私の応援演説のこと……」

「……関係ない。気にするな」


 月宮の予想が図星なことが情けない。俺を選んだ彼女に申し訳ない気持ちと、期待に応えられそうにない情けなさで溢れてくる。


「私のために頑張ってくれてるのは嬉しいよ」


 そう言って笑顔を見せる。最近は彼女の優しさに助けられてばかりだ。心配をかけないように取り繕いながら電車に乗り込む。いつの日か感じた、電車の中の心地よさを思い出しながら学校へと進んでいく。


 ☆


 授業にも集中できない。勝手にまぶたが下がってくる。今は世界史の授業で、桜木先生が中世ヨーロッパの説明をしているが、何も頭に入ってこない。


「日野くん! 起きてください!」


 桜木先生が俺の目の前までやってきて、わざわざ起こしてきた。俺一人が授業を聞かなかったとしても、先生の給料は変わらないはずだ。それなのに、どういうモチベーションで生徒を起こすのか理解できない。そんな言い訳を考えていたが、俺が単なる生徒である以上答えは出そうにない。


「ヨーロッパ最古の大学はどこか、分かりますか?」


 やべっ、聞いてないから全く分からない。適当に答えよっと。


「ミートソースパスタ大学」

「違います。ボローニャ大学です」


 ボローニャ……、ボロネーゼ。なんだ、ミートソースパスタなんだから実質正解だろ。しかし、周りからは「うわぁ……」という声が聞こえてくる。俺がふざけて答えたとでも? 俺は常に真剣だ。本当に分からなかったから、ヨーロッパっぽい言葉でワンチャンに賭けただけだ。


「いいですか? 中世ヨーロッパの大学生はあなたと違ってやる気がありました。真剣に授業を受けて、分からないところを残さない姿勢を持っていました。あなたもそうなってください」

「はい……」


 生返事だけしておいて、また机に臥した。


「コラー!」


 ☆


 放課後を告げるチャイムが鳴り響く。結局、今日は一日中寝ていた気がする。今日くらいは仕方ない。明日から頑張ろう。明日から。


「日野くん、今日は早く帰らないといけないから、また明日ね」


 月宮は足早に去っていった。彼女も俺と同じように生徒会選挙の準備をしているのかもしれない。それとも、今日は別の予定があるのだろうか。理由は分からない。俺も早く帰って寝るか……。カバンを持ち上げて前を見たところ、長い髪の少女と目が合う。


「あら、日野くん。今日はずっと眠そうだったわね」


 土屋だった。彼女は俺の顔を覗き込みながらそう言った。俺は席に座り直した。


「ああ……、応援演説が手につかなくてな」

「あなたでもそんなことあるのね。まあ、今回は仕方ないのかしら」


 そう言ってクスッと笑った。土屋はいつも俺をからかうような笑い方をする。気に食わないが、事実ばかりなので反論できない。


「手伝ってあげるわ。私なら光ちゃんのことはよく知ってるから」

「悪いな」


 土屋が仲間につき、執筆作業がはかどりそうだ。まだまだ眠気は取れないが、このまま家に持ち帰ってもまた眠れなくなるだけだろうから、さっさと終わらせたい。

 人の手を借りるというのには慣れない。今まで何度も言ってきた通り、俺は自分一人で生きてきた。なんでも一人でできるから仲間はいらないと考えていたが、いざ一人では解決できないことに出くわしたとき、苦労してしまう。今まで自分の世界に閉じこもっていた昔の俺は、まさに井の中の蛙であった。

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