第3話


 白い制服のワイシャツが赤黒く染まっていた。部屋中に散らばった赤く丸まったティッシュをゴミ箱に捨てる。


 あまり考えている暇はない。この1時間を無駄にはできない。出来ることをやるだけだ。


 俺は鼻にありったけのティッシュを詰め、自室から出た。


 廊下に出てから気がつく。隣の部屋が、妹の部屋だ。妹に声をかけるべきか迷いが生じる。今の俺に、かけてやれる言葉があるだろうか。多分、何も無い。


 殺気立って武者震いを起こしている身体に気づく。まずは顔を洗うべきだろう。


 洗面所に立ち、自分の顔を見る。酷い顔だ。そこら中に生傷が散らかっている。深呼吸をしてから冷水で顔を叩き、大声を上げた。


「どうしたのー?」


 リビングから母の声が聞こえた。懐かしい母の声だ。いつでも優しく、暖かい母の声。言葉が出てこなくなり、俺は走って自室に戻った。


 落ち着くためにベッドに腰掛ける。自然と涙が出てきた。まだ全てが死んでいない世界。終わりかけている世界。


「確かに、寒い人生だ」


 さらさらと心地の良い肌触りの布団を撫でると、手が震えてくる。日の光を吸った布団の香りのせいで涙が止まらない。


 時刻は18時を過ぎていた。夕食の香ばしい匂いが二階の部屋にまで届いてきていた。今晩はカレーだと、疑いようもなく分かる。


 ここから1時間しか行動が許されない。俺に出来ることは何か。どれだけ考えても、一度妹と顔を合わせるしか無かった。妹を凌辱した男たちに殴り込んでやりたい気持ちだったが、そんなことをするために馬頭へ頭を下げてここへ戻ったのではない。俺は自室を出て、隣の妹の部屋の前に立つ。


 扉を、静かにノックする。


 返事はない。


「少し話がしたい」


「嫌!」


 力強い妹の反発が胸を締め付ける。反射的にドアの前から引き下がろうとする自分の足を叩く。


 次の言葉。探しても、見当たらない。見つけようともできていない。


 俺は自室に戻った。言葉の解決は無理だと悟る。慰めることが最善策ではない。足りない。


 思いつきでクローゼットを開く。そこに、アイツがいた。


 俺はそいつを頭に被る。記憶に新しい、ゴムの臭いがした。


 完全な思いつきだった。自室の窓を開き、そこに攀じ登る。隣の部屋……つまり、妹の部屋の窓までにはそこまで距離はない。俺は手を伸ばす。妹の部屋の窓が、僅かに開いた。


 何をしているんだ、俺。自暴自棄にも程がある。


 開いた窓を開け放ち、俺はそこから妹の部屋へ入り込む。


 中学の時、塞ぎ込んで部屋に鍵をかけて籠城していた俺に対して妹がよくやっていたことだ。誰の顔も見たくなくて夕食の席に現れなかった俺に、妹はお菓子を差し出して帰っていった。


 思えば、俺はそれに救われていた。心のどこかで、妹が窓からやってくるのを心待ちにしていた気もした。


 ……とはいえ、それとこれとでは状況があまりにも違うが。


 馬のマスクを被ったおかげでほとんど辺りが見えなかった。正面しか見ることが出来ない。それに驚くほど臭い。


 妹は俺の登場に目もくれず、部屋の隅で塞ぎ込み、丸くなっていた。あんなことの後では仕方ないが、こちらにも時間が無い。


 言葉を探せ。


「……俺は未来から来た」


 咄嗟に出てきた言葉に、妹は何の反応も示さない。大失敗の大失言。言葉は一度出れば、戻らない。次の言葉を探すしかない。


「俺は、お前を救いに来た」


「キモイ。出てって」


「出ない……」


 平静を装いながら、妹のキモイ、という言葉に少し傷ついた。


「15年後の未来の俺に頼まれたんだよ。俺に出来ることなら何でもしてやる。あいつらを叩きのめすか?」


「お願い。一人にして」


 妹は再び塞ぎ込んだ。鼻の穴の先に付いた、二つの覗き穴から見た妹の姿が滑稽に映る。顔を上げろ。俯いた先には苦しみしかない。……それを、俺は知っている。お前だけには、そうなって欲しくないんだ。


 ふう、と息を吐く。「ほんま、しょうもないわ」


 俺の言葉は妹に届かない。観念した俺は、あの男の口調を借りていた。


「お前さんは15年後の未来にはもうおらんねん。死んどるんや。今日のことを悔やんで、自殺したんや」


 妹は顔を上げる。「……は?」


「そのまま塞ぎ込んでたらええやん。くだらん人生や。もっと上を見て、前だけを見て走っとったら出会えた景色を握り潰して死んだらええねん」


 妹の表情が変わる。マスク越しに、俺を睨みつけた。「うざいんだけど。……っていうか、何で関西弁なの」


 知らんわ。「そんなんどうだってええねん。お前さんはもう死ぬ運命や。ほっときゃ死ぬで」


「お兄ちゃんに、私の気持ちの何がわかるの?」


 何も分からない。「分かっとるわ。全部知っとるで。15年後の俺にはな。せやけどな、だからこそ言えんねんけどな、他人に自分のこと任せていい事なんて一つもあらへん。誰も助けてくれへんよ。誰も悲しんでくれへんよ。自分しか自分を助けられへんわ」


 言いながら、俺は涙が止まらなかった。


「……うん」妹も、泣いていた。「全然意味わんない」


 続けろ。全部吐き出せ。「後ろなんか見てたら前になんか進めへんよ。嫌なことは忘れたらええやん。楽しいことは噛み締めたらええやん。死んだらそれもでけへんよ」


「うん。……そうだね」


 感極まって、俺は妹の身体に触れる。その瞬間、あるはずの無い記憶が脳裏に過ぎる。妹の死に顔。俺はそれを見ていない。見る勇気がなかった。


 死んだ妹の表情は、険しく、怨みに満ちたものだった。


 まだ、間に合うのなら。俺は妹に対して出来ることを全てやり遂げてやりたい。


 妹の震える身体を抱き寄せた。駆け巡る思考ではなく、沸き立つ感情がそうさせた。


 わんわんと、妹が泣いた。これがあの時出来ていれば、あんな苦しみに満ちた未来は存在しなかったのか。なんだよ。こんな簡単なことが、こんなに難しいなんて。


「お前は生きてくれよ。お兄ちゃんの分まで。……頼むよ」


 時間が過ぎていく。残り時間はあとどれくらいだ。あとどれだけ、妹を勇気づけてやれるんだ。言いたいことは、山ほどあるんだ。やりたいことも、山ほどあるんだよ。……まったく、俺は、なにやってんだよ。


 ずっとこうして、妹を抱き寄せていたかった。だが、このままでは俺がどうにかなりそうだ。泣きじゃくってしまいそうだ。そんなダサい兄の姿を、最後の姿にはしたくない。できるなら、最後くらいは格好つけさせてほしい。


「……ま、そういうことだから。俺は、部屋に戻るよ」


 窓から身を乗り出す。妹がかつて、俺を慰めた時はこう言ってたっけ。「俺は、お前の味方だからな」


 妹の方を見る。これまで見た事のないほど、柔らかく、笑っていた。


「……お兄ちゃん、ありが」


 ズルッ。……ずる?


 突然、全身に重力がのしかかってくる。足を踏み外した。そのまま、身体が宙へ投げ出される。これは死んだ。絶対死んだ……!


「お兄ちゃん!!!?」


 妹の叫びが夕焼けの空に響く。馬頭のマスクが空にひらひらと舞う。鈍い痛みが全身を駆け巡った。夕焼けに染ったオレンジの空は静かで、滲んでいる。っていうか、動けない。痛い。


 ……あと、どれくらいこの世界にいられる。


 俺は、まだ、この世界に……。

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