第2話


 山口光太役


 山口光太








































 闇。


 ただ、長く長く続く闇。
























 またも、自分の名前だけが流れた。館内を移ろい色づかせていく音楽だけが流れる真っ黒な画面に、再度絶望を押し付けられる。


 俺はまた、あのエンドロールを見せられていた。先程見たのと同じ、空虚で残酷な自分の名前だけのエンドロール。


 劇場内のカーペット上を、ゆっくりと踏み締めながら近づく馬頭を視線だけで追う。放心し、すっかり憔悴した俺の目の前で馬頭が立ち止まった。


 馬頭は何も言葉を発しない。それどころか、何か言いたげな様子に思えた。その沈黙に耐えきれず、俺は言葉を紡ぐ。


「あの……。もう、1時間経ったんですね」


 馬頭は何も言わなかった。微かに、マスクの中で細く息をしているのが聞こえてくる。獰猛な生物の吐息のように、その呼吸は少しずつ乱れていく。不安感を煽るような息遣いになっていく。


「フーッ。フーッ……。ハァッ、ハァッ」


 俺の身体は動かなかった。先程まで動いていた身体が動かなくなり、またむず痒さを覚える。今にも殴りかかってきそうな息遣いの馬頭から顔を背けたかったが、あまりの恐怖で視線を外すことが出来ない。相変わらずゴム臭い。


「ハァ、ハァッ、ハァァァ、ハッ」


 ピタッ。ふと、馬頭が息を止めた。死んだか?


「いやー、どうやった? ホンマに戻ったやろ?」


 馬頭が眼前まで迫っていた。着色料で塗りたくられたマスク特有の刺激臭が鋭く鼻につく。


「でも、どうやら駄目みたいやな。君の行動ではエンドロールは変わらず。まーたあのさっぶい君の名前だけのエンドロールやったわ」


 心臓が張り裂けそうな気持ちだった。動悸のようなものはするが、このプラスチックのマネキンに心臓があるのかは定かでは無い。既に死んでいるらしいから何をされても平気なはずだが、そうは思わせない妙な恐怖感が襲っていた。


「君が飛んだのは高校三年生の時やったんやけど、どうやった? 青春してきたか?」


 馬頭は、俺の1時間の行動を見ていないかのような言い草だった。馬頭に飛ばされた1時間で、俺が何をしてきたかを語る気はないようだ。


「……いや。でも、色々思い出しましたよ」


「ほう。何を思い出したんや」


 俺は口中に苦い味を感じていた。それを、思い切り飲み込む。


「うまく言葉に……できないです。けど、自分の弱さ」


「ほぉー。どんな弱さ」


 俺は言葉がうまくまとまらず、支離滅裂な言葉をひとしきり馬頭にぶつけ始めた。説明をしているようで、言い訳をしているような。馬頭は黙って俺の言葉を聞いている。


 俺は、高校三年生のある出来事を発端として、自殺をしようとした。段々と、記憶が蘇ってくる。雲のかかっていた記憶が鮮明さと詳細を取り戻していき、段々と晴れていく。


 この馬頭に飛ばされたのは、俺の全てが崩れ始めたある日の、思い出したくもない1時間だった。忘れたはずの1時間。忘れようとして忘れることのなかった1時間。忘れてはいけない罪の記憶。それを取り戻していた。


「いじめられていたんです。高校三年生の俺は、クラスの皆から寄って集ってイジメを受けていました」


「あぁ、知っとるで。私は君のことなら何でも知っとる。……せやけど、自分でそれ言えたんは褒めるわ。近頃の奴はそれを言えん奴が多すぎんねん。何も間違いなんて犯してません、みたいな。な? よう言ったで」


 馬頭の言葉に、思わず喉が締まる。


「初めは、言葉の暴力でした。馬鹿だの死ねだの、そんな言葉です」


「エスカレートしていったんやな」


「今思えば、その言葉通りに死んでおくべきでした。そうすれば、俺の妹はあんなことをされる必要はなかった」


「妹さん、な……。言うとくけど、私は君の全部を知っとる。そら、手に取るようにな。せやけど、そのうえで、君は何が起こったのかを語るべきや。私はそう思う」


 馬頭の言葉に疑念はある。しかし、この出来事を他者に話せたことはなかった。ずっと胸の内にあった異物の捌け口を差し出された気分だ。俺は口を開く。


「……ある時、いじめの中心人物だった男に呼び出されて。そこには、複数人の男がたむろしていました。……この学校に、お前の妹がいるだろって。会わせて欲しいって言ってきたんです。俺は断った。けど、男の仲間が妹を連れてやってきたんです。……それで、妹が。クラスメイトの男に、呼び出されて。俺を苦しめるために、あいつらは。……目の前で。……それで、俺のせいで妹は」


 馬頭は俺の口を塞いだ。


「それ以上は君の口から言わんでええ。さっきも言ったやろ。知っとるで」


 つい先程感じた恐怖と怒りが、再び胸の中で渦巻いていた。何も出来なかった無力感。憎たらしい笑みで妹を犯し、俺に向かって汚い言葉を羅列させていた男の狂った声。俺に恐怖心を植え付けるために、痛めつけるために、何の罪もない妹は男に犯された。


 俺はその絶望的な瞬間を目の当たりにさせられた後、やり場のない怒りと自分自身に腹が立って自殺を図った。安易な選択だった。


 結果として死ぬことはできなかった。校舎の三階から、あいつらの目の前で飛び降りてやった。同じ恐怖心を植え付けるために。不幸なことに複雑骨折で一命を取り留め、長い間入院生活を送ることになった。そのあたりはもやがかかっていて、思い出すことが出来ない。思い出すほどの記憶が残っていないのかもしれない。そのまま学校復帰など出来る訳もなく、退学を申し出た。


 それからの人生はどん底だ。世界に絶望し、全ての色を失った俺の人生は、概ねその時点で終わっていた。働くために仕事も出来なければ、人間不信で誰とも会話なんて出来ない。口を開くことが出来なくなった。自分を信じることなど、二度と出来なくなった。


 妹を救えなかった自分自身が嫌になった。その場に出くわしながら、妹を救おうとも出来ずにただ立ち尽くしていた死に損ない。それが俺だった。何度自殺を試みても、情けないことに複雑骨折をした時の痛みに身体が震え上がって死ぬことも出来なくなった。果てのない、地獄のような苦しみ。


 折り重なった苦渋。それが毎秒襲ってくる苦痛に耐え切れなくなっていった。


 妹は、俺が校舎から飛び降りた数日後に電車に向かって身投げした。妹の方は即死だったはずだ。あの日の出来事を誰にも語らず、一人で悲しみを背負って死んで行った。


 俺が先程戻った1時間は、妹が死ぬことになった1時間でもあった。なのに、俺はまた逃げ出した。同じ轍を踏んだ。あの日の出来事を、記憶の中で何度も後悔していた。そのはずだったのに。


 俺は逃げた。その悔しさで、今にも気が狂いそうだった。


「もう一度お願いします」俺は、頭を下げるしかなかった。


「うっわ……」


 いつの間にか、涙を流しながら馬頭に懇願していた。目の前に差し出されたチャンスをみすみす逃した自分に呆れ返って何も言えない。


 もはや、俺自身がそう願ったのではない。心の奥底から湧き上がった様々な後悔や感情が、束になってなだれ込んできていた。あるいは、生前伝えることの叶わなかった妹に対する償いの顕れだったのかもしれない。


 自分にあの場で何が出来るかは分からない。だが、妹だけでも助け出すことは出来るはずだ。あの場から逃げるしかない。俺のせいで妹を死なせたくない。


「君のこと気に入った。よう言うたで! ホンマに!」


 馬頭はぶるっと頭を震わせる。思い切り俺の両肩を掴んだ馬頭は、左右にぶるぶると長い鼻を振り回している。


「君が背負ってきた罪! それを償いたい気持ち! あー、なんて都合のいい男やろ。傲慢やな! ……いや、すまん。ホンマに伝わってきてんで。ビビっときた。ビビったわ」


「お願いします。妹にもう一度、会わせて下さい。妹を救いたいんです」


「逆バックトゥザフューチャーやな?」


「はい。逆バックトゥザフューチャーで」


「ロデリアンで?」


「は?」


「君ティンマーな?」


「……はい。クドさん」


 馬頭が、全身をぶるぶると震わせる。なぜ逆バックトゥザフューチャーの話になるとこの男はここまで興奮するのか。


「……けど、そこは『さん』やくて、『博士』やろ。クド博士。……ま、ええけど。この際どうでもええけど。心底どうでもええっちゅうねん!」


 馬頭は、一人でブツブツと呟きながら、突然何かに苛立った様子に変わり、馬頭のマスクを剥ぎ取って地面に叩きつけた。


 その体勢のまま、馬頭はまた動かなくなった。


 その途端、目の前の景色が一瞬で変わる。


 次こそは、必ず。










































 瞼を開く。


 そこは学校ではない。目の前にいるはずの男たちの姿はなく、俺の手には大量の血が滲んだティッシュが握られている。


 俺は、あの惨劇が終わったあとの自室に飛んでいた。

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さっぶい男のエンドロール 八岐ロードショー @seimei_ki

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