第1話

 自分の名前を目にした時、様々なことを思い出した。

 そして、何も考えられなくなった。考えたくなくなった。


「なんや、なんか言えや」


 光太は、言われて顔を上げる。そこには、馬の頭があった。


 その馬の頭は、よく量販店のジョークグッズ売り場に売られているような、ビニールとゴムの臭いが鼻をつく、荒い作りのマスクだった。


「君の人生、逆に興味あるわ。なんなんあれ。なんであんな真っ暗なん」


 馬のマスクの特性上、目が左右横に着いているため全く目が合わない。そして、何故関西弁なんや。


「普通、色々あるで? 恋人、誰々。親友、誰々。協賛、どこどこ。とかな」


 エンドロール。映画で本編が終わったあとに流れる、出演者や製作者たちの名前がスクロールされる画面。先程クラシック音楽とともに見ていたのは、俺のエンドロールのようなものだったのではないだろうか。


 だとすれば、自分の人生に自分の名前だけが流れたのには驚くしかない。


「つまりあれやろ? 誰もお前の人生に参加してへんってことやんな? なんやそれ。おもろすぎんか」


 馬頭の声は男の声で、耳障りな甲高い声だった。服装は背広姿で、ネクタイが黒い。……喪服か?


「なあ、なんかえや。喋れへん訳やないやろ?」


 この関西弁の馬頭が、何者かは分からない。しかし明らかに、ここがどこかを知っている。もしここが死後の世界なら、彼は死神か、天使か。あるいは悪魔だろうか。


「……死んだんですよね、俺」


 馬頭は相変わらず、素っ頓狂な顔で目が合わない。


「せやな。死んだわ、君」


「じゃあ、なんで生きてるんですか俺。今」


「いやいや、死んでるで。君。正真正銘。なんなら、君が死んだ時の状況詳しく説明しよか?」


 そういえば、どうやって死んだんだろ。俺。思い出そうとしても、そこだけが思い出せない。


「俺、記憶が無いんですけど……」


「そらそやで。君、死ぬ前の数週間、廃人状態やったからな。あんまし言いたくはないんやけどな。君、死ぬ前から死んどったんやで」


 廃人になっていた。……駄目だ。何も思い出せない。


「そうですか。……それで、俺はこれからどうしたらいいんでしょう」


 馬頭の男は、マスクを上から撫でていた。自分の鼻を撫でている馬というのは見ていて気味が悪い。


「本当なら……なぁ」


 馬頭が、何かを言いかけた。「本当なら? 何ですか」


「いやー、でも酷やで。というか私、ごっつ気になってもうてるし」


 馬頭は、自問自答を繰り広げていた。


「せやなぁ……。うーん……。よし。決めたで」


 何かが決まったようで、馬頭がぶるん、と左右に震える。


「君、逆バックトゥザフューチャー決定」


 何かが決まった。


「なんですか?」


「逆バックトゥザフューチャーや。ゴートゥーザカコ。なあなあ、おもろいから私のこと、ドクって呼んでもろてええか。……いや、逆──ならクドか。私のことは今から、クドって呼んでくれや」


「は?」


 馬頭が、ふるふると小刻みに震えている。勝手に笑いのツボに入っているようだった。


「ほ、ほんなら君は、ティンマーやな! おもろっ! クドとティンマーやん! カッカッカッ」


 おもんない。


「ほんなら、早速行ってみよか。いつに飛ぶ?」


「飛ぶって。……過去に戻る、ってことですか」


「せやで。君、急に飲み込み良うなったな」


 何も飲み込めていない。先程から生唾が喉を通りっぱなしでいる。


「でも、過去におられる時間は1時間だけやで。悪いけど、こっちにも出来ることと出来ないことがあんねん。1時間だけ過去に戻ってみてや」


「……1時間って。何するんですか俺」


「決まっとるやろ。あのスッカスカのエンドロール思い出してみ? 酷いもんやったで。誰もお前のこと相手にしてくれてへん」


 俺のエンドロール。俺しかいない、エンドロール。誰も俺を相手にしていない。……誰も俺を、愛していない。


「ほんやったら、あれや。おまかせしてみる?」


「おまかせ、ですか」


「せや。……ほんでも、完全にテキトーちゃうで。私がココや! って思う日の1時間に、飛ばさせてもらうわ」


「1時間なんですよね。……何も変えれませんよ」


「モノは試しや。君も疑っとるしな。私としても、疑われとるままじゃ何も出来へん」


 何も抗う理由が見当たらない。山口光太は死んでいる。これ以上、何をすることも出来ない。身体は未だに動かないままで、ひたすら馬頭と話をし続けているだけだ。気が狂いそうになる。


「……分かりました」


「おっしゃ。それでこそ男やで」


 馬頭はそう言ったまま、全く動かなくなった。


「……え? どうしたんですか」


 先程までの威勢はどこに行ったのか、馬頭はぴたっと止まったままだ。


「ちょっと」俺は立ち上がり、馬頭の身体を揺さぶる。意外とガッチリとした肉付きで、筋肉の付き具合を自然と指先で追ってしまう。


「あれ」


 次の瞬間、馬頭は目の前から消え去っていた。


 劈くような悲鳴、男の荒い息。


 それが聞こえた瞬間、俺の頭の中は真っ白になる。

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