第22話 私なりに色々と努力するつもりだけどね

 夜十時半。

 真っ暗な時間帯を背景に、やっとの事で将人は彼女の家に到着する。


 玄関に入ると、急に体から力が抜け、靴を脱がずに式台のところに腰かけてしまう。


 安全な場所に辿り着いた直前に、将人の中に溜まっていた感情が湧きだしてきたのだ。


 ここまでくれば安心とは限らないが、こんな場所にいるとは誰も想像がつかないと思う。




「大丈夫、立てそう?」


 羽生沙織はにゅう/さおりから手を伸ばされる。


「立てるよ。大丈夫だから。ちょっと休憩したくなっただけ」

「でも、こんなところにずっといたら、よくないよ。リビングにソファがあるから、そこで横になってもいいし」

「本当に少し休むだけだから。すぐに行くから。それに少し一人になりたいだけで……」

「そう、分かったわ。じゃあ、大丈夫かな? 私、先にリビングに行ってるね。靴を脱いだから来てね」

「わかった」


 沙織は靴を脱いで玄関の廊下に上がり、その場から立ち去って行く。




 佐藤将人さとう/まさとは一人になると、肩からの重りを下ろすように大きなため息をはいた。


 葵との婚約は断ったものの、後で父親からなんて言われるやら、想像するだけでも悍ましかった。


 気分が落ち込み気味になるのだ。




 ダメだな、自分で決めたことなのに……。


 こんな事でクヨクヨしているなんて、沙織にも申し訳ないと思う。


 ここからは気分を変えて、仕切り直すしかないと思った。


 将人は自身の左頬を指先で摘まんで引っ張る。

 痛かった。


 一人で気合を入れ直したのである。


 これからは真剣に沙織とは向き合わないとな。


 自信をつけ立ち上がる。


 苦しい顔を見せてなんかいられないと思う。


 靴を脱いで、今から沙織がいるリビングへと向かうことにした。






 沙織はリビングにて、食事用のテーブルの上にコンビニの袋を置き、ゼリーなど先ほど購入したモノを、そのテーブル上に並べていた。


「ねえ、将人って、ゼリー食べる?」


 彼女は手にしている買い物袋を折りたたみながら将人の方を振り向いてきた。


「……あと少ししたら」

「じゃあ、一応、スプーンとかも用意しておくね」

「うん、ありがと」


 沙織の優しさで何とか心を救われている気がする。


 元々昔は、将人の方が沙織の事を助けていたのだ。


 今では、立場が切り替わってしまったかのように思えていた。


「ソファに座ってもいい?」

「え? そんなの聞かなくても座ってもいいよ」


 キッチンの方へ向かう沙織からは、急にどうしたのといった視線を向けられていた。


 将人はソファに腰かける。


 数秒ほど待っていると、トレーを持ち、キッチンから戻って来た沙織が歩み寄ってきたのだ。


「飲み物はオレンジジュースでもよかった? これしか無くて」

「それでいいよ」

「はい」

「ありがと」


 将人は右手の方で受け取った。


「ゼリーは前のテーブルに置いておくね」


 ゼリーのカップと、その上に銀色のスプーンが重なる。


「気分はよくなったかな?」


 将人がいる右隣に彼女が座り。それから距離を詰めてくる。


「大丈夫……問題ない」

「大丈夫ならいいんだけど。そんなに無理しないでね」


 沙織の優しい言葉が心に染みていた。


 それから数秒ほど静かになった後――


「将人ってさ……実のところ、誰が好きだったの?」


 突拍子のないセリフに、将人は少しだけ口に含んでいたオレンジジュースを吹き出しそうになっていた。


 何とか喉を通らせ、胸を落ち着かせる。


「……今のところは……」


 突然の質問に、誤魔化してしまう。


 将人は彼女の方を振り向く事すらできなくなっていた。

 急に気恥ずかしくなってきたからだ。


 心臓の鼓動が加速しているのが、自分でもわかる。

 しかも、さっきよりも彼女との距離が狭まっているような気がすると。


 今まさに、沙織の左腕が、将人の腕に接触している。


 冷静に考えれば、この家には、自分と沙織しかいないのだ。


 二人っきりだと思うと、妙に彼女の事を意識してしまう。


「……ねえ、どうなのかな?」

「それは、まあ……」

「けど、他に好きな人がいるなら、私もね、私なりに色々と努力するつもりだけど」

「ど、どういう風に?」

「それは……今は内緒だけどね」


 と、沙織は頬を紅潮させ、左手で口元を抑え、隠し事をしているかのようなジェスチャーをして見せていた。


 秘密なのかよ。

 余計に気になるだろ。


 それにしても、こんな近距離で沙織と会話する時なんてあったか?


 隣同士で座る事は多々あった。

 けれど、体を密着させながら、やり取りするのは今回が初めてだと思う。


 将人は恐る恐る彼女の横顔を見やった。

 すると、視線に気づいたのか、ジュースを飲む手を止め、沙織の方も視線を合わせてきたのだ。


 妙な間の数秒に悩まされる。




「ごめんね。急にこんな質問なんかして」

「そんな事はないよ」

「私も疲れているのかな?」


 沙織は自身の額に手を当て、軽く苦笑いを浮かべていた。


「疲れているなら、そろそろ休んだ方がいいんじゃない?」

「そうかもね。でも、私、もう少し起きていたいから……将人はどうするの? 休む? それとも、お風呂に入ってくる?」


 そう言い、沙織は顔を覗き込むように、急に顔を近づけてきたのだ。


「つ、使ってもいいの?」

「いいよ。将人、結構汗かいていたし、入った方がいいよ。脱衣所のところに、タオルがあると思うから好きに使ってもいいから」

「じゃあ、遠慮なく使うよ」


 将人は、彼女の微笑む表情にドキッとしながらも、オレンジジュースを一気飲みして、心を落ち着かせた。


 それからすぐさまに、ソファから立ち上がる。


「コップは私が洗っておくから、そこのテーブルに置いておいて」


 将人は彼女の意見に従い、ゼリーが置かれている横にコップを置いた。




 将人は極力、彼女の事を意識しないために、彼女の方を振り向くことなく、リビングを後にする。


 脱衣所に行くと、お風呂で使うシャンプーやタオルが一式揃っていた。


 扉を閉め、着慣れないスーツのTシャやズボンを脱いで、お風呂場に入る。


 沙織の家のお風呂を利用するなんて、小学生以来だと思う。


 昔は、ここで一緒に遊んで……。


 いや、それは思い出さない方がいい。

 あの頃は、異性の体の事を考えることなく、沙織とは遊んでいた。


 アレは昔の出来事だと思い、互いに高校生になっている今は状況が違うと自身に言い聞かせ、熱くなる感情を全力で抑えていた。


 体を洗い始めようとシャワーを浴びている時、近くから音がしたような気がした。

 けど、気にせず、石鹸で泡立てたタオルで体を洗い始める。


 その時だった、扉が開いたのは――




 将人は体を洗っている際、バッと振り返る。

 その場には、タオルで胸元を隠している、沙織の姿が佇んでいたのだ。

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