第12話
図書室に入ると、トーンを落とした会話の重なりが、それなりのざわめきとなって聞こえてくる。
静かでも、無人でないことに思い至る。
一直線に貸し出しのカウンターに行ったら、中野さんがこちらを見て微笑んだ。
いつものように黒縁の眼鏡をかけている。
上衣はベージュのおとなしい感じにまとめられていて、人柄も暖色系の中野さんにぴったりだった。
手をとめて、脇に文庫本を置くしぐさが様になっている。
置かれた文庫本をちらりと見ると名作の類だったので、自分の原稿がより一層出しづらくなる。
一瞬、どうしようかと
ゆるい歩調で近づくたびに、不思議な空気に少し胸がしめつけられる思いがした。
僕は小さな声で、もってきました、と呟くように言った。
「うまく書けたかはわからないですが、とにかく既定の枚数は書きました。なんか、思うようにはいかなかったけれど……」
言い訳を続けると、中野さんは、いいのよ、と笑った。
「アンネの悲劇というのはもちろんなんですが、こう、人間的な生活や思春期の感情の部分も……」
口で説明することさえ、うまく言葉が出てこない。
「自分と比べるのは変だけど、等身大で書いた方がいい気がして。いまの僕はアンネより二歳も年上で、でも甘っちょろい部分とか、この国の平和な怠惰さとか、違いがいろいろあって。それでも青春の
ブレーキを失った僕の説明を落ち着かせるように、
「いいのよ」
と、もう一度、中野さんはいつもより優しいトーンで言った。
「ほんとうに、いいの。有末くんが等身大で書けたのはよかったわ。大上段に構えたものを読みたいわけじゃないもの」
「そう、ですか」
「そうよ。別にアンネにかぎった話じゃないわ。なにを題材にしても、素直な気持ちを読みたいのよ」
声がやわらかい。
「素直な気持ちってのが、よくわからないんですけど」
つっけんどんに言うと、中野さんは笑った。
「中野さんは好意的に言ってくれるけど、結局、僕自身、満足いくものではないんです。書いてても、書いたものを読んでても嫌になるし……。書かなければ、もっとドツボだし」
と愚痴めいた内容で、どうしようもなく俯いてしまう。
「等身大で書けるってことは、素直なことだわ」
「そんなものですか。自分でままならないことを素直って言われても、ちょっとしんどいかも……です」
「ふむ。でもね、なにがほんとうの自分の気持ちかなんて、大人になったところでわからないものなのよ」
と目を細める中野さんは、もう、少し僕を持て余し気味なのかもしれない。
「ごめん。中野さん……」
「謝ることなんてないわよ。頼んだのは、こちらよ。とにかく読ませていただくから、そのあとに問題があれば言うわ」
僕は、問題があれば、かと思った。
「そんな顔しないで。『ブック・アラカルト』は最大限、生徒の本音を尊重しましょうっていうコンセプトだし、無理は言わないわよ。余程のことがないかぎり」
本音と余程のことって、どこで線引きできるんだろう、とまた難しく考えかけて、それに気づいて自分でうんざりした。
「わかりました。それでいいです。でも、遠慮する必要はないので、なんでも言ってください」
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