第13話

中野さんは頷くと、原稿をもって奥の部屋へ一度入って、こんどは眼鏡を外して戻ってきた。


「最近、私ね、学生のころ読んでた作品を読み返しているの。私、いま二十代の後半でしょう。不思議なもので、同じ作品でも十年前に読んだときと印象が違うのね」


不意に心を奪われるような言葉を中野さんはつむぐ。


返事をしなければ、と思いつつ何と答えたらいいか分からなくなって沈黙していると、


「そういえば、小畑くんと仲がいいのよね? アンネ関連の本を読んでいたから、訊いてみたら、君が題材にしてるからって言っててね」


「朔じゃなくて、小畑くんが、ですか?」


僕は、驚いて訊き返した。


「ええ。一生懸命に読みふけっていたわ」


「そうですか……。同じクラスではあるんですけど、やっぱりそれは意外な気がします。むしろ、普段の彼は本に縁がないタイプだし」


中野さんは、考え込むように顎に手をあてた。


ちょうど、その角度が、僕の斜めにすらりとした肢体を映した。


「小畑くん、けっこう頻繁に図書室に来てるわよ」


そこで初めて僕は、原稿を書くにあたって小畑たちクラスメートのことをほとんど意識にのぼらせたことがないことに気づいた。


黙ってしまった僕を見て、中野さんは言った。


「有末くんは、図書室だと集中して本を読んでいるものね。集中しているときは、なかなか周りの人に目がいかないものよ」


僕は曖昧に頷いて、


「小畑くん、どこで僕が原稿書いていること知ったんですかね?」


と訊くと、中野さんは首を傾げた。


「永田朔太郎くんじゃないかしら」


僕は、そうですか、とまた驚いた。


「永田くんと小畑くんと、それから相沢梨亜子さんの三人はときどき話してるようだから」


「朔と相沢さんと。知らなかったな……」


僕が肩を落とすと、中野さんはあわてて、有末くんが話題になっているみたいよ、と付け加え、


「有末くんと永田くんは特別な関係でしょ。見てれば分かるわよ。それって幸せなことだよ」


と、とりなすように言ったところで、他の生徒がやってきた。


僕は頭を下げて、対応している中野さんの図書カウンターから離れた。


こんなことでショックを受けているようじゃダメだ、と自分に言い聞かせた。


バッグを肩にかけて校門を出たとき、視界の端に演劇部で発声練習をする相沢梨亜子の姿が入ってきた。


僕はできるだけそちらを見ないようにして、早歩きで駅へと向かった。

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