第4話

家に帰り食事と入浴をすませると、僕は二階の自分の部屋の机についた。


家では、できるだけ自分の時間をもらうようにしている。


夕食だけは〝家族そろって〟がルールだから一緒に食べるが、それを終えると父も母も好きなことをしている。


時折は、夫婦共通の趣味であるクラシックがダイニングから流れている日もある。


僕の部屋にしつらえられた天井まで届く本棚は、父が日曜大工で作ってくれたものだ。


その壁面を、上からざっと背表紙のみ眺めていく。


それを三回繰り返したところで、黄色く日焼けした一冊に目が留まった。


小学五年生の寒い日、父と古本屋をめぐったとき、いつの間にか会計を済ませた父から渡されたのが、この『アンネ・フランクの生涯』だった。


お礼を言ったものの、ちょっと陰鬱な香りのするこの本は、開かれることなく僕の部屋の本棚の片隅で眠り続けていた。


取り出してみると、小さくほこりが舞った。


表紙に写るセピア色のアンネは小首をかしげ、挑戦的に、だが思春期にありがちな背伸びを感じさせる視線を放っていた。


美しいというより、どこか澄んでいて、しかも鮮やかに光っている少女だった。


ページ数を確認すると、六百ページ近くもある。


机のうえに置いてみたら、それだけで空間を占領されたような気分になった。


父は買ってくれたあと、一度も、読んだか、とは聞かなかった。


ただ一度だけ、僕の部屋へ来たついでに、


「あと三週間アンネ・フランクが生きていたら、どうなっただろうね」


と言ったことがあった。


なんて反応していいかわからず、僕はあえて無機質に、わからないよ、と答えた。


読んでほしい、という父の思いが察せられたので、そのときも申し訳程度に手にとってみたものの、目次だけ見て元の位置に戻してしまった。


『アンネ・フランクの生涯』は再び書棚で眠りについた。

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