第92話 再会

 家に入ってみると、中は思ったよりも暗かった。窓が厚手の日よけ布に、おおわれているせいだろう。


 だが、外の光がそこからわずかにけていて、何となく部屋の輪郭りんかくを浮きだたせていた。


「少しお待ちください」


 クモイはそう言うと、部屋の東側の日よけ布を一つずつ開け放つ。

 日の光によって、はっきりと見えるようになった部屋を、リシュールは不思議な心地でながめた。


 こじんまりとはしているが、天井は吹き抜けになっており、仕切る壁もないためか、案外広さを感じる。


 家具や長椅子などは整然せいぜんと置いてあり、床の中央には、円形に切り取られ、赤、黄、緑などのはっきりとした色で染められたフェルテン(厚地の毛織物けおりもののこと) がかれていた。


 家具と長椅子そのものは、遠い記憶の中にあるものと同じだが、配置は変わっている。また、フェルテンは見たことがなかったので、リシュールが孤児院に預けられたあとに買い足されたものと思われた。


 また、所々に額縁がくぶちに入れられた絵や画布がふなどが置かれており、そのせいか飾りっけのない部屋ではあるものの、家主の人柄がにじみ出ている感じがした。


「リシュ」


 クモイに呼ばれて振り向く。


 するとリシュールが部屋を見ている間に水をんできたのか、クモイは左腕に水差しをかかえ、同じ手に吸い飲みを握っていた。

 父に水を飲ませるのかもしれないと思っていると、彼は空いているほうの手で、部屋の奥を示す。


「こちらです」

「……うん」


 リシュールがうなずくと、クモイは手で示したほうへ進む。元々自分が住んでいた家なのに、クモイに案内されるのが変な感じがしながらも、後ろについていった。


 部屋の奥へ行くと、そこには細い廊下があったが、窓がないせいか日中でも暗い。また先ほどの部屋と違って、天井も低い。


 子どものときには気づかなかったが、家の構造が場所によって違ったのだなと、リシュールはぼんやりと思う。


 一方のクモイは、慣れた様子で一番手前の扉の前に立つと、「ここにリヒテルさまがいらっしゃいます」と言った。


 リシュールは緊張した面持おももちで、こくりとうなずくと、クモイは主人を安心させるように「大丈夫ですよ」と優しい声で言ってくれる。


 そして、彼は扉の戸を叩いた。


「おはようございます。リヒテルさま。クモイでございます」


 だが、返事はない。

 リシュールがどきどきしていると、クモイは「いつもこうなのです」と言ってドアを開けた。


 ドアの先にはとても小さな部屋で、先ほどの部屋と同じく、窓に厚手の日よけ布がかけられている。

 クモイはすっと中に入ると、部屋にあった小さなテーブルに、手に持っていた水差しなどを置き、日よけ布を開けて部屋に光を入れた。


 そこにはベッドが二つ置いてあり、リシュールから見て右側にリヒテルであろう人物が眠っていた。


「リヒテルさま」


 だが、一度では返事はしてくれず、何度か声を掛けると「ああ、お前か……」と、しわがれた声で言う。

 クモイはベッドの傍によると、静かな声で言った。


「リヒテルさま。けは私が勝ちました」


 その言葉の意味を理解するのに時間を要したのか、しばらく沈黙が部屋におりる。


 だが、リヒテルはようやくのことで、「な………んだと?」と聞くと、クモイはリヒテルの背を支え、ゆっくりと起こしてやるとリシュールのほうに、手を向けた。


「ですから、私は連れてまいりました。リシュールさまを」


 リシュールは、ベッドの上に体を起こした男をそっと見る。


 頭の髪はさびしくなっていて、残っているものは真っ白くなっていた。

 ほほせこけ、しわも多く、そして深い。体もほっそりとしていて、どこにあの暴力的な力があったのかと思うくらい、弱っていた。


 記憶の中の父の顔はもう、ぼやけていてよく覚えていない。そのため、「本当に父だろうか」と疑ってしまったくらいである。


 だが、瞳だけは違っていた。


 リシュールを見て、「自分の息子なのだと」分かった瞬間、生気のなかった茶色い瞳に強い光が灯ったように、じっとリシュールを見つめる。


「リシュー……ル……、なのか?」


 リヒテルは何とか声を出す。

 リシュールはごくりとのどを鳴らすと、しっかりとうなずいた。


「うん」


 すると、リヒテルはおもむろに涙を流す。干からびた体ゆえに、目の辺りの皮膚をらす程度ではあったが、「そうか……、そうか……」と何度もしみじみと呟く姿には、深い情が感じられた。


 そしてリヒテルは、さらに驚く行動に出た。

 クモイに手伝ってもらい、やっとのことでベッドから立ち上がると、彼に支えてもらいながら震える手を胸に当てて、リシュールに向かって深く、深く頭を下げたのである。


「す……まな、かった……。本当に……、すまなかった……」

「……父さん」


 リシュールが一言そう言うと、リヒテルはゆっくりと頭を上げ、信じられないと言った顔を向ける。


「『父』と……呼んで……くれる、のか……?」


 自分のしてきたことを思えば、「父」と言われることなどないと思っていたのだろう。


 当然、本当ならば、親子が離れ離れにならないよう、努力しなければならなかった。

 しかし、やってきた過去はもう変えられない。


 だからこそ、リシュールももう怒るのはやめようと思ったのだ。

 怒っても自分が疲れるだけであるし、何も生まない。

 怒りで生きようとするのは不幸だ。クモイの妹のように。


 リシュールはそっと父のほうに歩み寄ると、その手を取り優しく握った。

 しわくちゃで、温かい手である。

 だが、リヒテルは精一杯力を入れても、握り返すことができなかった。


「すまない……」


 悲しげに呟く父に、リシュールは首を横に振り、静かな声で言った。


「僕はもう、父さんのこと怒ってないよ。だから、昔のことで謝らなくていいんだ」


 通り過ぎてきた過去は、過去としてある。

 だが、リヒテルは息子につぐなおうとしていた。

 許されないだろうと思っていても、その行動に出てくれた。


 ――もう十分だ。


 リシュールは心の中でそう思った。


「あり……がとう……」


 息子の一言に、リヒテルは顔のしわを深め、不格好ぶかっこうに笑うのだった。

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