第二章 マントの中で眠る魔法使い

第23話 疑い

「ただいま戻りました」


 リシュールは下宿屋のドアを開けると、小さな声でそう言った。だが言ったところで誰が聞いているというわけではない。建物の中はしんとしており、リシュールの声は月明かりが照らす空間に、すうっと消えてしまう。


 リシュールはその静けさを壊さぬように、そっとドアを閉じる。すると、開けたドアから差し込んでいた月明かりがさえぎられ、一気に暗くなった。


 この下宿屋は、電気で明かりをつけることもできるのだが、お金が掛かると言っておかみが使いたがらない。そのため遅くに帰宅した下宿人たちは、玄関のところにおいてあるランプに火を灯して部屋へ戻るのだ。


 リシュールは手の感覚を頼りに、テーブルの上にあるランプに触れるとマッチをって手際よく火をつける。すると、温かみのある柔らかな光が、足元を照らした。


 リシュールはそれと手荷物を持って、静かに階段を上っていった。すでに寝ている住人もいるので、大きな音を出さないように気を付けなくてはならない。

 だが慎重に歩みを進めていた背に、声を掛ける者がいた。


「そこにいるのは、リシュールだね?」


 低い女性の声である。


「は、はいっ」


 リシュールは驚きで声が裏返る。

 階段の下を振り返ると、寝巻をまとった五十代くらいのやせた女が、ランプを掲げて立っている。下宿屋のおかみだ。いつもと変わらない不機嫌な表情を浮かべているようだが、ランプの光に照らされて怒っているようにも見える。


「そんなに驚くことでもないだろう。それともやましいことでもあるのかい?」


 不機嫌そうに言う彼女に、リシュールは弁解した。


「すみません。考え事をしていたのと、声を掛けられると思っていなくて、びっくりしてしまいました」

「ふうん……。まあ、いいけど。ちょっと聞きたいことがあってね」

「何でしょうか?」

「あんた、あの部屋に誰か連れ込んでいないだろうね?」


 リシュールは内心ギクリとしながらも、平静をよそおって答えた。


「どうしてそんなことを……? 僕以外誰もいませんよ」

「そう? あんたの下の部屋にいるルベルが、今朝けさあんたの部屋が騒々しかったっていうからさ」

「……」


 冷静に考えてみると、確かに朝のリシュールの声は、下に聞こえていたかもしれなかった。そして彼が、今朝の出来事をおかみに報告したのは、妙に納得だった。


 ルベルは、リシュールの下の部屋に住んでいる二十一歳の青年である。あまり話したことはないが、どうもリシュールのことを良く思っていないようだった。理由ははっきりとは分からないが、考えられるとすれば、「孤児院出身であること」が影響していると思われた。


 風の便たよりで知ったことだが、孤児院から出てきた子たちはお金がないため、生活に苦しくなると盗みをするという。皆が皆、盗みをするわけではないが、そういう傾向があるのは事実のようだった。


 世の中には、貧乏な子どもが可哀そうだと情けをかけてくれる人もいるが、そういう人たちばかりではない。自分の身を守るために、警戒して近づかない者もいる。それは仕方のないことだと、リシュールは思う。


「何かあった?」


 おかみは、ルベルが「うるさかった」と言った理由について、説明を求めているようだった。


「それは……、鳥が入ってきたせいかと……」

「鳥?」


 おかみがいぶかしげに聞き返す。


「はい。目を覚ましたら僕の頬を突いている鳥がいたので、驚いて声を出してしましました」


 実際リシュールは頬を突かれていた。鳥ではなく魔法使いだったが。


「じゃあ、一人で騒いでいたってことかい?」


 暗闇だが、おかみがしげしげとリシュールを見ているが感じられる。本当かどうかを確かめようとしているのだろう。


「……はい」

「入ってきた鳥を飼いはじめた、なんてことは?」


 おかみは重ねて尋ねる。家賃を払っていない住人がいないことを、念入りに確認しているようだった。それは人間以外の生き物でも例外ではない。

 リシュールは首を横に振った。


「ないです。自分の生活を成り立たせるので精一杯なのに、他の生き物の面倒なんて見ていられませんから。捕まえて、逃がしてやりました」


 おかみは「そうかい」と言う。納得しただろうかと思っていると、彼女はゆっくりと階段を上がってきた。そしてリシュールが立っている二つ下の段まで来ると、次のように尋ねた。


「じゃあ、今からあんたの部屋を見に行っても問題ないね?」


 ランプの光で浮かび上がる彼女の表情には、苛立いらだちと共に疲れも見える。

 その表情を見る限り、本当は早く休みたいが、他の住人から報告があったので、確認をしておこうというのが伺えた。


 リシュールは、彼女の苛立った雰囲気に気圧けおされつつも、こくりとうなずく。そして自分の部屋へ向かうために階段を上り始めると、その後ろをおかみが黙って付いて来た。

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