第16話 みじめな気持ち

 客足が途切れたのは、太陽が西へ沈み、一気に深い藍色になった空に星が輝きはじめたころだった。


 クモイが「今日はお終いにしましょう」と言って閉店を促したので、リシュールは素直にうなずいた。この時間帯になると流石さすがに気温が下がり肌寒くなるし、話すたびに出る息も白くなる。


 リシュールが片付けようとすると、クモイが「私がいたしますね」と言って、はじめてしまう。そのためリシュールは、彼が片付けるのを箱に座って眺めていた。


「……」


 その日は結局、来客した顧客全てをクモイに任せてしまった。


 というより、最初の客の様子を見ていた人が次に来て、またその様子を見ていた人が来てしまったので、リシュールに変わるタイミングがなかったのである。


 だが、理由はそれだけではない。

 リシュールが靴磨きをするよりも出来がいいし、十日ほどかけて稼ぐお金を一日で稼いでしまったのだから文句の言いようもない。お金も全てくれるというのだから、まるで自分が王様になったかのようだ。


 だが、リシュールはあまり嬉しくなかった。


「はあ……」

「どうかされましたか?」


 ひざひじを乗せて頬杖をつく主人に、クモイはしゃがみ視線をできるだけ同じ高さにしてから、心配そうに声を掛けた。

 そんなクモイをリシュールはうらめしそうに見つめると、もう一度ため息をついて言った。


「どうもしてないよ。クモイのことを試すようなことを言ったのにさ、僕より靴磨きが上手かったから何も言えなくなっているだけ」

「上手かったですか?」


 目を輝かせて尋ねる彼を、不思議そうに見ながらリシュールはうなずいた。


「うん」


 クモイはリシュールの靴磨きの腕を知らないので、もしかするとリシュールの靴磨きの腕が相当にいいと思っているかもしれない。いや、この顔から察するにそう思っていることだろう。これが「主人」という色眼鏡を通して見られていると思うと、なおさらリシュールはみじめな気持ちになった。


 クモイは、誰かと比較する必要もなくいい腕を持っている。それにもかかわらず、技量が分からない主人に褒めてもらえて嬉しいなど、どうかしている。


「嬉しいです。それにお役に立てて光栄です」


 明るい笑みを浮かべ、クモイは道具が入った箱をぱたんと閉じる。リシュールは彼の表情を見ながら、もし自分がもっと年齢を重ねた人間だったら、彼のこの笑顔の裏に隠された本当の気持ちを見抜けるのだろうかと思った。


「片付けは終わったね」


 リシュールが箱から立ち上がりながら言うと、クモイは「この後はどうされますか?」と尋ねた。


「どうって? 帰るだけだけど何かあるの?」


 きょとんとして聞き返すと、クモイは気まずそうな表情を浮かべ謝った。


「申し訳ありません。夕食をどこかで召し上がるのかと思ったのです……」

「外食ってこと?」


 クモイは小さくうなずく。


「リシュのお部屋から想像するに、きっと自炊はされていないようだったので、そう思ったのですが……」


 するとリシュールは軽く肩をすくめた。


「残念でした。外食はしていないんだ。だって外で食べるのは高いんだもの」

「では、どこで食事を?」

「下宿屋で出された食事の残り物を食べるんだよ」


 リシュールにとってはいつものことなので平然と答えたが、クモイは驚いた顔をする。


「残り物? 用意されていないのですか?」

「ないよ。でも、下宿屋の残った料理が食べられるだけまだマシさ」


 クモイの表情が次第にかげる。


「……もし残らなかったら?」


 遠慮がちに尋ねた彼に、リシュールはさも当たり前に答えた。


「買ってあるフォンを、水にひたしながら食べる」


 クモイは一度地面に視線を落とし、真剣な表情で何かを考えると、パッと顔を上げてリシュールにこう言った。


「リシュ、お願いがあります」

「お願い?」

「今日、私が靴磨きで得たお金を貸していただけませんか?」


 リシュールは変なことを聞くなぁ、と思いながら笑う。


「それはクモイのものだから、僕に許可を取らなくてもいいんだよ」


 するとクモイは次のことを提案した。


「でしたら、外で一緒に食事をしませんか?」


 リシュールは一瞬何を言われたのか分からず、「え?」と聞き返した。


「外で食事をしませんか、と申しました」


 もう一度同じことを言われて、やっと彼の意図することが分かったが、リシュールは断った。


「僕はお金がないからいいって。クモイだけで行ってきなよ」

「私がお出しします」


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