二二章 プロポーズ

 まだ授業がはじまる前の早朝。

 とは言え、空に輝く太陽はすでに灼熱の光を発しており、コンクリートむき出しの屋上からは湯気のような熱波が立ちのぼっている。そこはすでに、真夏の昼下がりのような暑さに包まれていた。

 地上のグラウンドからは朝練に励む運動部員たちの声が聞こえてくる。

 そんななか、笑苗えないつきとふたり、正面から立ち会っていた。

 いつきはいつも通り無表情にじっと笑苗えなを見つめ、笑苗えな華奢きゃしゃな体を小刻みに震わせ、両目を閉じて顔をうつむけている。小刻みに震える両手はギュッと握りしめられている。

 とてもではないけど、いつきを見ることなんて出来ない。

 いつきのためを思っての演技とは言え、いつきを傷つけた。

 もてあそんだ。

 その思いが激しい罪悪感となって胸をえぐる。

 あのときからずっとそうだったけど、こうして改めて立ち会うとさらにその思いが強くなる。

 ――今度こそ殴られるかも。

 そう思う。

 ――でも、仕方がない。あたしはそれだけのことをしたんだから。

 笑苗えなはギュッと奥歯を噛みしめ、そう覚悟を決めていた。

 ――これで、いつきがあたしのことを忘れて自分の将来のために旅立ってくれれば……あたしは、それでいい。

 もちろん、『ふたりで立ち会っている』と言っても、本当にふたりきりなわけではない。みおたち四人も同じく屋上にいる。ただし、物陰に身を潜めてコソコソ様子をうかがっている。

 本来、そんな必要はないはずだった。

 いつき笑苗えなだけではなく、みおたち四人にもメールを送ってきたのだ。つまり、みおたちにも立ち会ってもらいたい、と言うこと。である以上、笑苗えなと一緒にいつきの前に立つのが筋というものだ。しかし――。

 いまの状況でふたりと同じ場に立つだけの度胸は誰にもなかった。

 いつきは押し黙ったまま、小刻みに震える笑苗えなを見つめている。そんなふたりの様子をうかがいながらみおが不安げな声を出した。

 「……ね、ねえ。新道しんどうの用ってなんだと思う?」

 「あたしにわかるわけないでしょ!」

 あきらが叱りつけるように叫んだ。

 すると、慶吾けいごが真顔で言った。

 「もし……もし、新道しんどうひいらぎに手をあげるような真似をしたら、おれは黙っていない。新道しんどうをぶん殴る」

 今度は一発や二発、殴られたぐらいじゃ引きさがらない。

 徹底的にやる。

 覚悟を決めて慶吾けいごは断言した。すると、雅史まさふみがメガネを直しながら応じた。

 「安心しろ。おれも殴る」

 「あ、あたしだって……!」

 「あたしもね」

 みおとあきらも拳を握りしめながら、宣言した。

 そんなみおたちの見守るなか、いつきはようやく口を開いた。

 「まず……」

 ビクッ、と、笑苗えなは身を震わせる。

 「君は女優だけは目指さない方がいい。あんな下手な芝居では誰も納得させられない」

 「えっ……?」

 思わぬ言葉に笑苗えなは思わずいつきを見上げていた。みおたち四人も呆気あっけにとられた。笑苗えなを見つめるいつきの表情は優しい、と言うわけではないが、高原の湖のように静かで穏やかなものだった。

 「アーデルハイドの誘いは断った」

 「えっ……?」

 またしても繰り出された意外な一言に、笑苗えなは思わず声をあげる。

 「たしかに、世界の農業の現場は見てきたい。世界中の現場を見て、話をして、仲間を作りたい。でも、それは、大学を卒業してからでも出来ることだ。そもそも、『大学までは卒業する』っていう親との約束の方が先だからね。だから……」

 いつきはいったん、言葉を切った。

 息を吸い込んでからつづけた。

 「大学までは日本に残る。大学を卒業して、親との約束を果たしてから堂々と世界に向かう。そのときは……君にも一緒に来てほしい」

 一緒に来てほしい。

 突如として投げ込まれた言葉の爆弾に――。

 笑苗えな呆気あっけにとられた。

 隠れて聞いているみおたちも表情が驚きに固まった。

 「そ、それって……」

 信じられない。

 そんな表情で口ごもる笑苗えなに向かい、いつきは堂々と言った。

 「そうだ。プロポーズだ」

 プロッ……⁉

 そう叫びそうになったのは隠れて聞いているみおたちであって、笑苗えなは驚きのあまり、息をすることさえ忘れたような表情になっている。

 いつきの表情にはいささかの変化もない。

 照れもない。

 恥じらいもない。

 ほおの一欠片さえ赤くなってなどいない。

 まだ高校生の、それも、女子との交際経験などなく免疫ひとつないいつきほおを赤らめることすらなく堂々とプロボーズしてのけた。それは、いかに固く決意しているかの現れだった。

 いつきはつづけた。

 「君はおれの知らない世界を教えてくれた。おれのことを思って、わざわざあんな小芝居までして身を引こうとしてくれた。そのとき、君が本気でおれの将来を考えてくれていることがわかった。だから、その将来を君と共にしたい。君と一緒に未来を作っていきたい。それに、君は、農園経営で美容製品を担当してくれるんだろう? おれには君が必要なんだ」

 「で、でも、それならアーデルハイドが……」

 「ドイツ人は美容に関しては興味が薄いんだ。アーデルハイドはこの点では頼りに出来ない」

 いつきはそう言ってから、さらにつづけた。

 「アーデルハイドはたしかに農家としては優れている。農業の知識、技術、経験に関してはおれ以上だ。経営についても学んでいる。でも、それはすべて、おれにも出来ることなんだ。同じことしか出来ない人間がふたりいたって意味はない。おれにとっても、アーデルハイドにとってもね。

 おれに必要なのは、おれに出来ないことをしてくれる人だ。おれに必要なのは、君だ。君なんだ。笑苗えな

 笑苗えな

 その言葉を笑苗えなは聞き逃さなかった。

 それはいつきがはじめて、笑苗えなのことを名前で呼んだ瞬間だった。

 「あ、あたし、あたし……」

 笑苗えなはパニックに陥っていた。なにを言っていいのかわからない。

 でも、なにか言わなくちゃ。

 ちゃんと、答えなきゃ。

 笑苗えなのなかでその思いがはじけた。

 「あ、あの、あたし……」

 笑苗えなは胸に手を当て、顔を真っ赤にして叫んだ。

 「あたし……まだ処女だから!」

 「なんだ、いきなり!」

 いきなりの宣言にいつきが顔を真っ赤にして叫んだ。物陰ではみおたち四人が瀕死の状態に陥っている。

 「あ……」

 と、笑苗えなはようやく、自分がなにを口走ったのか理解した。そのせいでさらにパニックに陥った。それでも、つづけた。

 「だ、だって、あたし、ほら、けっこう派手めのギャルだから、だから、もしかしたら、経験豊富な方だと思われてるんじゃないかって……たしかに、何人もの男の子と付き合ってきたし、キスまでは経験あるけど……最後まで行ったことはないから……信じて」

 信じて。

 と、笑苗えなはすがりつくような視線でいつきを見上げる。いつきはそんな笑苗えなを見つめた。溜め息をついた。両手で笑苗えなを制した。

 「……わかった。とにかく、落ち着いて。どっちみち、おれと付き合う前のことなんてどうでもいいことだ」

 おれたちは、未来を作っていくんだから。

 いつきはそう言った。

 「う、うん……」

 笑苗えなは顔を赤く染めたまま恥ずかしそうにうつむいた。

 そんな笑苗えなに対し、いつきは改めて願った。

 「ひいらぎ笑苗えなさん。新道しんどういつきと結婚してください」

 きっぱりと――。

 そう言いきっていつきは頭をさげた。右手を差し出した。笑苗えなの両目から涙があふれ出した。

 「……はい。喜んで」

 泣きじゃくったままいつきの手をとった。両手でしっかりと握りしめた。

 みおたちが歓喜の声をあげた。狂喜乱舞の生きた見本となってその場に飛び出した。

 笑苗えないつき、若いカップルを囲んで声をあげながら跳びはねた。

 新しい未来が誕生した瞬間だった。

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