一九章 あたしより……

 「いつき! 学校、やめちゃうの⁉」

 笑苗えなは生徒指導室のドアを吹き飛ばさんばかりの勢いで開けると、大声を張りあげた。

 あまりの勢いに椅子に座って対面していたいつきと担任教師が、驚いて腰を浮かせかけている。両目共に大きく見開かれており、まるで、目の前にいきなりドラゴンが現れて火を吹き付けられたような表情をしている。

 「あっ……」

 笑苗えなはその表情でようやく、我に返った。自分が『やっちまった……』ことに気付いて頬を赤らめた。その後ろでは笑苗えなの暴走を押さえるべく追いかけてきたものの、武運つたなく間に合わなかったいつもの連れ、みお、あきら、慶吾けいご雅史まさふみが息を切らしながらうつむいている。

 「……ハアハア。笑苗えな、足早すぎ。いつもはむしろ、鈍くさいのに」

 「これが、恋する乙女力ね」

 みおとあきらがひざに両手をおいて、肩で息をしながら言う。

 「……お前のせいだぞ、慶吾けいご新道しんどうが来てるってだけでもこうなることはわかりきってるのに、『学校やめる』なんてよけいなことまで言うから」

 「……悪ぃ」

 こちらもみおとあきらに劣らず息を切らしている雅史まさふみが、ずれた秀才メガネを直しながら言う。慶吾けいごはいかにもバツの悪そうな表情で呟いた。

 ――だけど、仮にもサッカー部のおれが追いつけないなんて……ひいらぎのやつ、どんだけドーピングしたんだよ。

 そう思わずにいられない慶吾けいごだった。もちろん、この場合のドーピング原料とは『いつきへの恋心』である。

 「こら、お前たち! ノックもなしに飛び込んでくるとは失礼だろう」

 中年の男性教師が型どおりの叱責をする。笑苗えなたちは返す言葉もないのでその場で縮こまる。いつきが担任教師を制した。

 「いえ、いいんです。先生」

 言いながら椅子から立ちあがる。

 「ありがとうございました。これで、失礼します」

 いつきは上半身ごと教師にお辞儀した。その態度の丁寧ていねいさが『相談内容』の深刻さを告げていた。

 「お、おう……。なにかあったらまたいつでも相談に来い」

 教師はなんとも歯切れの悪い答え方をした。その様子からするといつきの相談とは中年教師にとっても容易に答えられないものだったにちがいない。

 「では、失礼します」

 いつきはもう一度、教師に向かって頭をさげると笑苗えなたちに向き直った。最初に笑苗えな、それから他の四人ともひとつずつ視線を合わせる。その丁寧ていねいさは笑苗えなたちに不吉な予感を覚えさせるに充分なものだった。

 彼女とその連れたちにたっぷり不安を植え付けておいて、いつきは口にした。

 「ひいらぎ……それと、みんなには話しておかないとな。屋上にでも行こう」


 そして、いつき笑苗えなみお、あきら、慶吾けいご雅史まさふみの六人は屋上へとやってきた。

 いまどきの九月はまだまだ夏真っ盛り。秋の気配など微塵も感じさせない灼熱の太陽がコンクリート製の屋上を熱し、陽炎が立っているかのよう。もし、いまこの場で卵を割って落としたら、たちまち目玉焼きが出来上がるにちがいない。

 そんな灼熱地獄の屋上だけにさすがに他に人はいない。その場でいつき笑苗えなたちに向き直った。笑苗えないつきの正面に立ち、みおたち四人はちょっと後ろに並んでいる。

 正直、みおたちとしては気まずい。深刻な話であることはいつきの態度を見ればわかる。恋人同士でそんな話をするときに、自分たちがこの場にいていいものか……。

 しかし、いつきもすでに『連れ』のひとりだし、なにより、笑苗えなのことが心配だ。なので、気まずさは覚えつつもこの場にいる。ちょっと後ろに引きながら、寄り添うようにしてハラハラした表情で見守っている。

 そんなみおたちの存在をどこまで意識しているのか、いつき笑苗えなに向かって頭をさげた。

 「まず、連絡もしなかったことを謝らないとな。ごめん。強行日程でヨーロッパ中を回っていたから連絡出来なかったんだ」

 「ヨーロッパ中を?」

 「ああ。アーデルハイドは覚えているか? ウォルフの長女の」

 「あ、うん」

 「かのに誘われたんだ。一緒に世界中の農業を見て回らないかって」

 「一緒に⁉」

 笑苗えなは目を丸くして叫んだ。

 後ろに並ぶみおたちも、笑苗えなに劣らずびっくりしている。

 「ドイツの教育制度は日本とはかなりちがう。義務教育は一五歳までだけど、一八歳になるまでは全日制の学校に通っていないものは就職のかたわら、職業学校に通う義務がある。アーデルハイドはウォルフの跡を継ぐ予定だから、ウォルフの知り合いの農場で働いている。親子だとお互い、甘えが出たり、馴れ合ったりで、指導がうまく行きにくいという理由でね。その農場で働きながら、農業の職業学校に通っているわけだ。

 でも、アーデルハイドは今年で一八歳。職業学校も卒業だ。そうしたら、世界中の農業をその目で見て、体験するために世界中を旅するそうだ。それに一緒に来ないかと誘われた」

 「一緒に……行くの?」

 笑苗えなはいままで自分が生きてきた世界とはあまりにちがうグローバルな話に圧倒されていた。いつきは自分とはちがうんだ。こんな世界に生きているんだ。そのことを改めて思い知らされた。

 いつきを失うかも知れない。

 その不安を抱え、胸元でギュッと拳を握りしめながら尋ねた。その後ろではみおたち四人も同じように不安げな顔を浮かべている。

 「行きたい」

 きっぱりと――。

 いつきはそう答えた。

 「正直に言えば、行きたい。そうなる。たしかに、おれはまだ一〇代の、世間的に言えばほんの子どもだ。だけど、それがなんだ。スポーツ選手なんて高校生どころか中学生でも世界を舞台にプレイしている時代じゃないか。スポーツ選手が一〇代のうちに世界に出ていくなら農家だってそうしていいはずだ。いや、農家のように地味な職業だからこそ、世界につながることで『夢のある職業』だとアピールする必要があるんだ。

 農業をめぐる状況は厳しい。しかも、それは、世界中、同じなんだ。単に日本一国だけの農業が危ないとか、そんな次元じゃない。いままで好き勝手に環境をいじってきたツケが爆発している。このまま手をこまねいていたら農業は絶滅しかねない。

 そんなことになったらどうなる? 食糧を作る人間がいなくなってしまう。作物は工業製品じゃない。人間は機械じゃない。足りなくなったからってすぐに増やせるものじゃないし、人間は燃料食糧がないからって機能を停止してとっておくわけには行かない。

 みんな、死んでしまうんだ。そうさせないだめには農業の未来を作らなくちゃならない。若くて優秀な人間がどんどん入ってくる魅力ある世界にしなくちゃいけない。そのためには、いままでの農業じゃ駄目なんだ。まったく新しい農業が必要なんだ。そのために――。

 いま、世界中で様々な新しい農業が試されている。多くの人々が工夫を凝らし、試行錯誤を重ねている。それを見てきたい。経験したい。世界中に同じ思いをもつ仲間を作り、新しい農業を生み出したい。そのためには直接、その場に行って話をし、体験を共有するのが一番だ。だから――」

 いつきははっきりと口にした。

 「世界をまわってきたい」

 「……いつき

 ほう、と、いつきは溜め息をついた。

 「……でも、世界中をまわるとなったら何年かかるかわからない。まして、行く先々でその場その場の農業を体験しながらだ。よけい、時間がかかる。もし、いま、行こうと思えば休学なんていうわけにはいかない。はっきりと退学して行かなきゃならない」

 「やっぱり……学校、やめるの?」

 行かないで!

 そう叫びたい。

 でも、その声は胸のなかから出てこなかった。

 ――だって、だって、いつきは将来のために旅立とうとしているんだから。

 その邪魔なんて出来ない!

 笑苗えなのなかでその思いがはじけていた。

 「そのことで先生と相談してたんだ。前にも言ったと思うけど『大学までは卒業する』って言う親との約束もあるし。それに……」

 「それに?」

 「……人生ではじめて、彼女が出来た。世界を見てきたいと思うのと同じぐらい、君と一緒にいたいとも思っている。だから……」

 いつきは奥歯を噛みしめるようにして言った。

 「……迷ってるんだ」


 その夜。

 笑苗えなは自分の部屋でまんじりともせずに過ごしていた。

 夕食も食べていない。

 学校から帰るなり言葉もなしに部屋に直行し、制服のままベッドにもぐり込んだ。まだ小学生の弟はなにかと様子見に行きたがっていたが、おとなである両親は娘の態度からある程度のことを察し、そっとしておくよう言い含めた。

 そして、明け方近く。

 まんじりともせずに夜を明かした笑苗えなは、徹夜明けの目でようやくひとつの結論に達していた。

 「……いつきは本気で自分の将来のことを考えてる。世界の未来のことを考えてる。足を引っ張ったらダメだよね」

 笑苗えなは軽くうなずいた。

 「……いつきにはあたしより、アーデルハイドの方がふさわしい」

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