一八章 帰ってこないあいつ

 「一週間程度で帰ってくる予定だけどね」

 ――そう言ってたから……。

 ぷうっと頬をふくらませて笑苗えなは思う。

 ――ずっとまってたのに。それこそ、メールの返事が返ってくるのをずっとまってるみたいな感じでまってたのに。帰ってきたら一緒にやりたいこと、行きたいところ、いっぱいあったのに……。

 海にだってまた行きたかった。

 山にだって行きたかった。

 カラオケとか、遊園地とかにだって行きたかった。

 いつきとふたりで畑仕事に精を出して、農家夫婦の気分に浸るのだってすごく楽しみにしていた。

 いつも食べるばかりでは女子としてしゃくだから、料理だって頑張った。おかげで、糞生意気な弟でさえ『姉ちゃん、実は料理の才能あったんだな』と、笑苗えなの手料理をバクバク食べるようになった。

 ――帰ってきたら、思いっきり豪勢な愛妻弁当をふるまって驚かせてやろう。

 そう思ってほくそ笑んでいた。それなのに――。

 いつきは帰ってこなかった。

 予定の一週間が過ぎてもなんの連絡もなかった。

 ――ま、まあ、旅行の予定が二、三日延びるなんて普通にあるよね、うん。パック旅行とかじゃなくて短期のホームステイみたいなものなんだし。

 きっと、向こうの家族に気に入られて帰してもらえないんだろう。

 そう思い、苦笑するだけの余裕があった。この頃までは。ウォルフのふたりの娘、アーデルハイドとアンナのことは気になったけど……。

 十日たち、二週間が過ぎてもいつきは帰ってこなかった。

 さすがに頭にきた。

 腹が立った。

 ――なによ、なによ、なによ! かわいい彼女が日本でまってるのに、なんでちっとも帰ってこないのよ⁉

 ――まさか、向こうの娘ふたりにチヤホヤされて、ハーレム気分に浸ってて、それで、こっちのことを忘れてるとかじゃないでしょうね。もし、そうだとしたら絶対の、絶対の、ぜっ~たいに! 許さないんだからねっ!

 いつもそんなことを考えて頬はプリプリ、頭は蒸気を吹きあげて……という状態なので家族はもちろん、連れであるみおたちでさえ近づけず、遠巻きに見つめるばかり。

 早く帰ってきて!

 と、ある意味、笑苗えな以上に必死に願った。

 ――そりゃあ、遊びに行ってるんじゃないってのはわかってるわよ。将来のために勉強に行ってるんだから忙しいだろうし、帰って来れない事情もあるでしょうよ。でも、それならなんで、連絡のひとつもくれないのよ。せめて、メールで一言、帰って来れない理由を伝えてくれれば……。

 あたしって、いつきにとってその程度の存在だったの?

 そう思うと悲しくて、切なくて、怒り心頭に発していた姿はどこへやら。見ていていたたまれないほどにションボリしてしまう笑苗えなだった。

 三週間がたった。

 いつきはやはり、帰ってこない。

 こうなると、怒りや悲しみを通り越して心配だけが沸き立ってくる。

 急病にでもなったんじゃないか。

 怪我でもしたんじゃないか。

 外国は治安が悪いって言うから刺されでもしたんじゃないか……。

 そんな思いばかりが頭のなかでグルグル渦巻いてちっとも落ち着けない。

 「だ、だいじょうぶだよ! そんなことないって」

 さすがに見かねたみおがそう励ました。

 「ほら、よく言うじゃない。『便りがないのは無事な証拠』って。なにかあったら、さすがに向こうの家族から連絡があるはずだし。ドイツのお友達のことはご両親も知ってるんでしょ? なにかあったら、ご両親に連絡が行かないはずないって」

 「そうだ! ご両親ならなにか知ってるはず!」

 みおの言葉にいまさらながらにそう気がついて、笑苗えないつきの実家に向かった。いつきの両親は愛想良く迎えてはくれたが、さすがに困惑気味の様子だった。

 「……一週間ほど前、『予定が伸びて、もうしばらくこっちにいることになった』という連絡が来たきりでね。くわしいことはわからないんだ」

 息子の彼女に心配をかけないようにとの気遣いだろう。いつきの両親は努めて平静を装って話してはいたが、隠しきれない不安が滲み出ていた。

 そして、八月の終盤。夏休みも終わりに近づいた頃。

 すっかり憔悴しょうすいしきった様子の笑苗えなを見かねて、みおたちが海に誘ったり、カラオケに連れ出したり、遊園地に出かけて騒いだりした。

 笑苗えなもさすがに連れたちが自分のことを気に懸けてくれているのはわかるので、その場では楽しそうにしていた。しかし、なにしろ、小学校時代からの付き合いである。本気で楽しんでいるのか、気を使って表面だけ楽しんでいる振りをしているのかなどすぐにわかる。『振り』をしているのが痛々しくて見ていられない。結局、みおたちも笑苗えなを誘うのをやめてしまった。

 ――ああ、神さま! どうか、いつきを無事に帰してください。

 毎晩のようにそう祈った。

 そして、八月が終わり、九月となった。

 新学期のはじまる日。

 ――さすがに新学期だもん! 帰ってきてるよね。『大学までは卒業する』って言うご両親との約束もあるし。絶対、今日は会えるよね!

 そう期待をかけ、胸を弾ませながら学校に向かった。飛び込んだ教室に――。

 いつきの姿はなかった。

 ――あ、あたしが早すぎただけだよね。いつきに会えるって思って早く来すぎちゃったから。時間になれば来るよ、うん……!

 自分に必死に言い聞かせた。

 しかし、始業式のはじまる時間になってもいつきはやってこなかった。

 結局、その日、新道しんどういつきは登校してこなかった。

 そして、九月に入って一週間が過ぎた。

 いつきは一度も学校に顔を見せていない。教師たちにも尋ねてみたが、本人からも、家族からもなんの連絡もないという。

 笑苗えなはもう喪に服しているかのような様子で、学校のなかで笑苗えなのいる場所だけが異空間のように暗く、思い雰囲気に満ちている。みおたちも心配は心配なのだが、どう声をかけていいかわからず、遠巻きに見つめているしかなかった。

 そんなある日、慶吾けいごが血相をかえて教室に飛び込んできた。

 「大変だ! 新道しんどうが学校に来てる! いま、生徒指導室で先生と話してる!」

 「ええっ⁉」

 笑苗えなが、みおが、あきらが、雅史まさふみまでもがまるで女子のような大声をあげた。

 笑苗えなは椅子を蹴倒して立ちあがり、生徒指導室に駆けつけようとした。その笑苗えなに向かい、慶吾けいごが叫んだ。

 「それが……新道しんどうのやつ、学校をやめるとかなんとか」

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