一一章 …さよなら

 「ねえねえ、新道しんどう

 笑苗えなは授業が終わるやいなや、まるで縮地でも発動させたかのような素早さでいつきの側に移動した。その目にもとまらぬ動きにクラス中の生徒が目を丸くした。いつき自身もびっくりしている。

 笑苗えなはそんなことにはかまわず誘いかける。

 「今日、時間あったらさ。カラオケ、行ってみない?」

 「カラオケ?」

 「そう。新道しんどうって、なにかいつも仕事してるじゃない。たまにはカラオケとかもいいと思うよ」

 「……カラオケか。でも、おれはカラオケなんて行ったことないしな」

 「だったら、なおさら行くべきよ。たまにはかわったことするのも良い経験だって」

 「歌なんてなにも知らないし……」

 「そこは、あたしが教えてあげるってば」

 笑苗えなは自信満々にそう言いきった。だてにみおたちや、付き合っていた男子と一緒にカラオケ通いをしてきたわけではない。

 「それにほら。新道しんどうって将来、アパート経営も取り込むんでしょ? 庭師役をするならアパートの人たちとも付き合わなくちゃいけないし。そのときのためにも、はやりの歌ぐらいは押さえておいた方がいいって」

 少々、怪しい論理ではあったが、いつきの心には響いたらしい。森はあごに指を当て、少しばかり考え込んだ。

 「……たしかに、一理あるな。でも、言ったとおり、おれはカラオケなんて行ったことないし、店も知らないけど」

 「そこは任せてっ! この辺のカラオケ店は全店、制覇してるんだから」

 笑苗えなはドン! と、ばかりに胸を叩いてみせる。

 「……そうか。それじゃ、エスコートはお願いするよ」

 「任せてっ!」

 笑苗えなは満面の笑顔で請け負った。

 そして、ふたりは寄り添いながら教室を出て行った。いっそ、腕を組んでいないのが不思議なほどの密着振り。その後ろ姿を見送りながらみお、あきら、慶吾けいご雅史まさふみの四人は不安げな顔を寄せ合っていた。

 「……なあ。今日でいよいよ十日目なんだけど」

 慶吾けいごのいかにも後ろめたそうなヒソヒソ声にあきらが答える。

 「罰ゲームの期限は今日で終わりなのね……」

 「……笑苗えな、完全にそんなこと忘れてるよね」と、みお

 「どうする? 放っておいていいのか?」

 「え、ええと……」

 「ま、まあ、いいんじゃない? ほら、『嘘から出た誠』なんてことわざもあるし。このままうまく行くならいっちゃえば……」

 雅史まさふみの問いにみおが両目を空中に泳がせ、あきらが冷や汗混じりにあわてて言った。

 「でも、新道しんどうにバレたときのことを思うと……」

 雅史まさふみのその言葉に――。

 みおたちは一斉に不安げな顔を見せあった。

 そんな、くら~い雰囲気を吹き飛ばしたのはヤケクソになったかのようなみおの明るい声だった。

 「だ、だいじょうぶ、だいじょうぶ! バレなければ問題ない! 誰も言わなければバレやしない! 罰ゲームだったことは全員、黙って墓場までもっていく! それでいいわね?」

 みおの言葉に――。

 ――それしかないか。

 と、全員がうなずいた。それでも――。

 一抹の不安はやはり、残るのだった。


 そのカラオケ店は三階建ての立派な建物だった。いたるところ派手な看板やら宣伝文句やらが並び、ちょっとした威容を放っている。

 その威容に圧倒されたのか、いつきは店の前で立ち尽くしていた。見上げる顔には一筋の冷や汗。もし、ひとりで来ていたなら勇気がくじけ、逃げ出していたにちがいない。

 しかし、このときのいつきの側には導きの女神がいた。

 「どうしたの、新道しんどう。緊張してる?」

 導きの女神ことひいらぎ笑苗えないつきの顔をのぞき込みながらそう尋ねた。

 いつきはうなずいた。

 「……ああ。こういう店に来たことないから」

 「ネットカフェとかもないの?」

 「ないな。せいぜいファミレスぐらいだ」

 畑仕事と海外の友人との交流に忙しい身では無理もない。

 それと聞いて笑苗えなは内心、ほくそ笑んだ。

 ――と言うことは……あたしが新道しんどうのはじめてゲット!

 と、心のなかだけでガッツポーズをとってみせる。

 「だいじょうぶ、だいじょうぶ。あたしがついてるからね。特にここは馴染みのお店だから。さあ、行こう」

 と、笑苗えなは――本人も気がつかないうちに――当たり前のようにいつきの手をとり、店内へと導いた。いつきの顔が真っ赤になっていることはもちろん、まったく、金輪際、気付いていない。

 『馴染みの店』との言葉を証明するかのように手際よく手続きをすませ、個室に入る。その部屋の雰囲気にいつきはまたも圧倒されて立ちすくむ。笑苗えなはそんないつきを勇気づけるかのように選曲リストを見せた。そこで、またもいつきの額に冷や汗が流れる。

 「どうしたの、新道しんどう?」

 「……ひとつもわからない。知らない名前の曲ばかりだ」

 正直、ここまで世間とズレているとは思わなかった。『世間に合わせる』なんて考えたこともないいつきだが、さすがここまでズレているのは問題と思う。

 「だいじょうぶ、だいじょうぶ。全部、あたしが教えてあげる」

 笑苗えなは嬉しそうにそう言った。

 畑ではまったくのアウェーで教えられてばかりだったけど、ここでは自分こそがホーム。教えられる側ではなく教える側。

 ――あたしにも新道しんどうに教えられるものがあるっ!

 そう思うと、とにかく嬉しい。

 いつきも自分と世間のズレの大きさにショックを受けたところだったので、笑苗えなの断言は頼もしい限りだった。

 「そうだな。よろしく頼む」

 「任せて!」

 というわけで、ふたりのはじめてのカラオケがはじまった。

 もちろん、いつきは歌のことなどなにも知らないのですべて笑苗えなが選んだ。初心者でも唄いやすく、踊りやすい歌を選んでスタート。振り付け指導しながら先に立って唄い、いつきをリードする。

 いつきもはじめてのカラオケとあってぎこちない限りだったが、笑苗えなのリードに乗せられてなんとか唄い、踊った。

 「そうそう、そんな感じ。はじめてにしては良い動きよ」

 「そ、そうかな?」

 「そうそう。やっぱり、新道しんどうって運動神経いいんだね。声も悪くないしさ。ちょっと練習すればうまくなれるよ」

 「いや、別にカラオケがうまくなりたいわけじゃ……」

 そう言いながら、いつき笑苗えなにリードされて熱心に唄いつづけた。このあたり、やはり生真面目で向上心が高いだけあって、例え、興味のないカラオケであっても、やりはじめると真剣になる。

 笑苗えなのリードといつきの生真面目さ。その甲斐あって時間が終わる頃にはなかなかに上達していた。

 「うん、合格! これなら誰とでも胸を張ってカラオケに行けるよ!」

 と、笑苗えなは満面の笑顔で告げる。

 ――でもまあ、あたし以外の女の子とカラオケに行くなんて許さないけどね。

 その思いを裏に隠してニッコリ微笑む。

 その笑顔に潜む邪悪さにいつきも気がついたのだろうか。若干、引き気味に礼を言った。

 「あ、ありがとう……」

 額を流れる一筋の汗は唄い終わったあとの青春の汗か、はたまた冷や汗か。

 ともかく、時間が来たのでふたりは部屋を出て、家路についた。

 はああ~、と、いつきが溜め息をついた。

 「なにか、疲れたな。唄うのが、こんなに体力を使うことだとは思わなかった」

 「そりゃあね。唄って踊るのは全身運動だもの。体力は使うわよ」

 「君たちはいつも、こんなことをしてるのか?」

 「いつもってほどでもないけどね」

 なにしろ、予算の問題があるから、と、舌など出して付け加えながら笑苗えなは答えた。

 「でも、それなりには来てるわね。カラオケ店に行かないときも振り付けの練習したりはするし」

 「……すごいな。尊敬するよ。おれには無理だ」

 「でも、楽しかったでしょ?」

 言われていつきはマジマジと笑苗えなの顔を見た。それから、まっすぐ前を向いた。遠くを見つめるような声を出した。

 「……ああ。そうだな。楽しかった……よ」

 いつも通り、いつき笑苗えなを家の近くまで送ってくれた。笑苗えなは笑顔でパタパタと手を振ってみせる。

 「じゃあね、新道しんどう。また明日」

 と、無邪気に挨拶する。

 「……ああ。さよなら」

 ふっ、と、いつきはさびしげな笑顔を見せて帰って行く。その後ろ姿を見ながら笑苗えなは思った。

 ――新道しんどうってば、あんなにさびしそうしちゃって。あたしと別れるのがそんなに悲しいのね。かわいいんだから。

 そう思うと胸のなかに喜びが弾ける。家に向かって駆けだした。

 ――さあ、早く帰ってメールして、安心させてあげないとね。

 一点の曇りもなく――。

 笑苗えなの心は晴れ渡っていた。

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