九章 ドイツの友

 終業のチャイムが鳴り響く。

 その途端、笑苗えなはいそいそと帰り支度をはじめた。その姿がなんとも楽しそう。浮かぶ笑顔はお日さま級。鼻歌までも唄っている。

 体が小刻みに揺れ動き、全身でハミングしている。見ているだけでこちらまで楽しくなってくる。そんな喜びにあふれた姿。ここ数日すっかり定番と化した笑苗えなのその姿。小学校の頃からの仲良しグループのひとりであるみお笑苗えなに近づいた。

 「ねえ、笑苗えな。今日これからみんなでカラオケ行くんだけど、一緒にどう?」

 笑苗えなは迷う素振りも見せずに両手をあわせ、片目をつぶって見せた。

 「ごめ~ん。今日もこれから新道しんどうのうちに行くから。じゃあねえ~」

 と、誘いに対する未練も見せず、いつきのもとへと飛んでいく。いつきの方が照れて、照れて、困ってしまうぐらいにぴったり寄り添う。見上げる顔はもちろん、満面の笑顔、笑顔、笑顔。その姿にはまわりの生徒たちもやっかむと言うより、引いてしまっている。

 その姿をみお唖然あぜんとして見送った。

 いままで、男子と付き合っているときでも仲間内からの誘いを断ったことなんてない笑苗えななのに、これっていったいどういうこと?

 頭のまわり中に『?』マークを乱舞させているみおのまわりにあきら、慶吾けいご雅史まさふみのいつものメンバーが集まった。

 「ちょ、ちょっと! これ、どういうこと? まさか、笑苗えなってば本気になってる?」

 「そ、そんなわけないだろ!」

 あきらの言葉に慶吾けいごがあわてて否定した。

 「ひいらぎの好みはスポーツマンタイプの細マッチョだろ。いくらなんでも、あんな陰キャのボッチに本気になるわけ……」

 「で、でも、いままで男の子と付き合っていたときだって、あんなに楽しそうにしてなかったよ」と、みお

 「もし、本気になっていたとして……どうする?」

 と、雅史まさふみ。メガネをかけた優等生タイプだけに深刻な表情が様になる。

 「ど、どうするって。うまく行ってるなら別にいいんじゃないの? 新道しんどうだって悪い気はしてなさそうだし……」

 「だけど、もともとは罰ゲームの嘘告なんだぞ。もし、新道しんどうがそのことを知ったら……」

 「うっ……」

 「……なんかもう、笑苗えなの方がそのこと忘れちゃってるみたいだし」

 「これで、バレたら……もう冗談じゃすまないことになるんじゃないか?」

 慶吾けいごの言葉に――。

 みお、あきら、雅史まさふみは顔を見合わせて、薄ら寒い表情を見せ合ったのだった。


 仲間たちの心配をよそに、笑苗えないつきの畑にいた。目の前では米俵を担いだいつきが歩いている。

 納屋にしまっておいた去年分、最後の米俵だという。中身を開けて小分けにし、家のなかのキッチンと野外キッチンとにわけて置いておくのだという。

 しかし、笑苗えなにとって重要なのはそんな説明ではない。米俵を運ぶいつきの姿だ。ひとつ六〇キロある米俵を右肩に担いでよろけもしない。重そうな様子ひとつない。まるで、なにももっていないかのようにスタスタ歩く。

 ――うわあ。これなら、あたしをお姫さま抱っこするぐらい、簡単だろうなあ。

 生まれてこの方、体重が五〇キロを超えたことがないのが自慢の笑苗えなである。

 米俵を支えるいつきの二の腕の筋肉がグッと盛りあがり、いわおのようになっている。その筋肉に笑苗えなの視線は引きつけられる。

 「すごいねえ、新道しんどう。筋肉がこんなになってる」

 思わずチョン、と、二の腕をつついてしまう。

 「わあっ!」

 突然のことにいつきは驚き、バランスを崩す。米俵を落として転んでしまった。前に倒れたからよかったものの、もし、横に倒れていたら、六〇キロの米俵が笑苗えなに直撃して大惨事になっていたところだ。

 「な、なにをするんだ、いきなり⁉」

 「ご、ごめん……! あんまりすごい筋肉なもんだから、つい……」

 ――まさか、新道しんどうがこんなに筋肉モリモリだったなんて……。

 笑苗えなは思わず生唾を飲み込んだ。

 見た目はごくごく平凡な中肉中背なのにその実、筋肉の鎧がぎっしり。細マッチョ好きにはたまらない体型。いままで、学生服で全身を包んだ姿しか見たことがなかったし、体育の授業は男女別々なので気がつかなかった。

 「そりゃ、畑仕事をしていれば筋肉はつくさ」

 いつきは畑の地面にあぐらをかき、髪の毛をかきあげながら言った。

 額の汗に手についていた土が溶け、黒い縞模様を作る。それがまた笑苗えなの細マッチョ好きを刺激した。

 「それに、おれはパンも作るしな」

 「パン? パンを作るのと筋肉がなにか関係あるの?」

 「パン作りは重労働だ。何十キロという粉を扱うし、生地の固まりをこねたり、叩いたりするわけだからね。いやでも腕っ節は強くなる。ヨーロッパには『パン屋とは喧嘩するな』って言うことわざもあるぐらいだ」

 「へ、へえ、そうなんだ……」

 畑仕事とパン作り。それによってここまで自分好みの肉体が出来上がるなんて……。

 ――そう言えば、新道しんどうって運動神経も悪くないのよね。実際に見たことはないけど、体育の授業でも運動部員相手にまともにやりあえるらしいし……。

 チラリ、と、笑苗えないつきを見た。

 ――全身、見たらどんな体型なんだろう? み、見てみたい……!

 そうは思ったが、さすがに『見せて!』とは言えない。デート経験豊富な笑苗えなも、男子の裸を見るほど進んだことはない。

 いつきのスマホが鳴った。

 いつきは座り込んだままスマホを取り出し、電話に出た。

 ――ご両親からかな?

 笑苗えなはそう思ったが、いつきの口から出た言葉は――。

 ――英語⁉

 突然、英語が飛び出したことに笑苗えなは驚いた。

 いつきは当然のように英語で話し、五分ばかりで電話を切った。早く切りあげたのは、この場にいる笑苗えなに遠慮したためだろう。

 「え、ええと、新道しんどうってアメリカに知り合い、いるの?」

 笑苗えなはやや引きつった顔で尋ねた。

 いつきの答えは笑苗えなの予想を超えていた。

 「いや、ドイツ」

 「ドイツ⁉」

 「そう。ほら」

 と、いつきはスマホの画面を見せた。そこには両親と娘ふたりと言った様子の四人の男女の写真があった。

 「ドイツの農場主のウォルフとその奥さんのマルガレータ。それに、娘のアーデルハイドとアンナ」

 ウォルフとマルガレータは共に四〇代、アーデルハイドはひとつ年上の一八歳で、アンナは三つ年下だという。

 「新道しんどうってドイツ人の知り合い、いたんだ。ってか、なんでドイツ人と英語で話してたの?」

 ――あれ、英語だよね、多分……。

 と、ちょっと自信のなくなる笑苗えなだった。

 いつきは当たり前のこととして答えた。

 「そりゃあ、英語は公用語なわけだから。言語がちがうもの同士が話すとなれば英語になるよ」

 「あ、ああ、なるほど……」

 日本語コミュニティーしか知らない笑苗えなには想像もつかない、グローバルな常識だった。

 「ドイツは環境先進国でね。国民一人ひとりの意識が高くて環境問題に対しても様々な取り組みをしている。地産地消の地場エネルギーに関しても熱心だ。特に農家は太陽電池を取り入れて自家発電するケースか増えている。

 昔のドイツでは農家のことを『土地のあるじ』と言ったけど、いまでは『エネルギーのあるじ』と言う呼び名が増えてきている」

 「へ、へえ……」

 「ウォルフもそのひとりだ。太陽電池やら、バイオガス・プラントやらを積極的に取り入れて脱炭素に取り組んでいる。町で使う風車の共同オーナーにもなっている」

 「へ、へえ……」

 と、笑苗えなは芸もなく同じ返事を繰り返す。

 「ドイツ農業に学ぼうとあれこれ調べているうちに知り合ってね。ドイツのみならずEUの農業についていろいろ教わってる」

 「そ、そうなんだ……」

 驚いた。

 本当に驚いた。

 高校生の身でドイツの農家とつながり、未来を目指して活動しているなんて。

 ――そう言うのって普通、大学を卒業したりしてからやるものなんじゃないの?

 笑苗えなはそう思ったが、いつきは事実としてすでにそれだけの活動をしている。

 ――新道しんどうがカースト外にいたわけがわかったわ。

 いつきはすでに学校の外に自分の社会を築いている。そもそも、祖父の畑を継ぐ条件として『大学まではきちんと卒業する』という約束をしたという話からして学校生活自体、義務のようなもので、いつきのなかでは大きなものではないのだろう。スクールカーストなどという、学校内でしか意味をもたない『制度ごっこ』に興味を示さないのも当然だ。

 ――学校では陰キャのボッチ扱いされていたけど、実際には陰キャでもボッチでもなくて学校の外に生活の中心をもっていたのね。そりゃ、いつも堂々としているわけだわ。うん。

 笑苗えなはそう思い、こっそり溜め息をついた。

 いつきは同じ一七歳の身ですでに未来を見据え、世界とつながり、活動している。それに比べて自分はなにをやっていたのだろう。

 スクールカーストなどと言う、わずか数年の、それも、学校の外に一歩出れば意味を成さなくなる『制度ごっこ』に汲々とし、そこから転落しないことばかりを考えてきたなんて……。

 ――あたしは、なにかひとつでも新道しんどうと向き合えるものがあるのかなあ。

 そう思い、不安になる笑苗えなだった。

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