第七首「穏やかな 君の寝顔を 見つめてる 誰より近く 誰より遠く」

 目を開けると、由香李の顔が目と鼻の先にあった。

 ぱっちりした大きな目を囲む長いまつげと、筆で描いたようなまん丸の眉、透きとおるような白い肌、つややかな黒髪は何本か垂れさがって俺の頬をくすぐる、などと描写したいところだったが、あまりの驚きでそんな余裕はなかった。

 勢いよく跳ねおきる。由香李に頭突きする。

 ごちんと鈍い音が鳴った。

 由香李は後ろにのけぞると「はわー」と文字にならないような叫びを上げながら額を抑えてのたうち回った。とはいえ十二単を着ているのでのたうち回るといってもそんなに激しい動きはできない。どちらかというと呻いてもぞもぞと身をよじらせているといった方が正しかった。

 対して、俺は別に痛くも痒くもなかった。

 子供の頃から石頭だ石頭だとはいわれてきたが、それに加えて、普段から蹴鞠リグローブの練習のためと、練習用のボールをときに頭で扱っていた。

 ここで練習用、という言葉を使わせてもらったが、本番で使うボールと何が違うかというと一番は重量である。

 練習用の鞠が五〇〇グラム程度なのに対し、競技用のボールは四〇キログラムある。

 つまり脚骼レガースをしない状態では、蹴ったとしてもまったく動きもせず、逆に打ちつけた俺のつま先から、電撃が走りぬけるように、体の輪郭がぎざぎざになって蛇腹のように伸縮し、また徐々にそのつま先から本来のきっちりした輪郭を取りもどした後、赤く腫れあがって倍ほどの大きさになった足を抑えて片脚でぴょんぴょん跳ねまわりながら奇声をあげるのが落ちなのである。

 先の練習で使ったのは競技用の方だ。だが、ああした練習はいつもできるわけではない。例えば、混沌師カオシストの立ちあいなどなど、様々な条件付きで、なおかつ事前に予約が必要なのである。

 だから普段は練習用の鞠で、それを手足のように操れるよう訓練しておく。それが脚骼レガースを履いて四〇キログラムのとんでもない質量を持ってこちらの命を奪いとろうと迫ってくるボールをはじきかえす時、その方向や距離を決める時、重要な経験として生きてくるのだ。

「いたた……」

 由香李は額を抑えたままの手の指の間からこちらを覗いている。

「……悪い」

 なんか最近謝ってばかりだ。

「いえ……わたしが顔を近づけすぎたのがいけないんです……あはは、ちょっと目が悪くなってきたかもですね」

「その通りだ。それに元はといえばお前が失敗作を投げるのが悪い。そして部屋も汚い。片づけろ」

「ええー。そこは嘘でも、いやいや悪いのはいつだって俺なんだぜ小猫ちゃん、みたいにいってくださいよ」

「誰の真似なんだそりゃ……。それより目が悪いならこんな薄暗いところにこもってないで、遠くの緑でも見たほうがいいんじゃないか」

「成通さん、じじむさいこといいますねぇ」

「ほっとけ」

 由香李は、十二単の長すぎる裾と長い黒髪を床にすりすり、にじりよってくると縁側に腰かけた。

 俺も隣に座る。いい天気だ。

「いい天気ですねぇ」

「そうだな」

「池は日の光が当たって魚の鱗みたいにきらきら輝いてて、池が一つの生き物みたいに見えますね。生えそろった草は風にそよいで寄せては返す波。大きな石は小島のようです。なんだかこの庭全体が湖みたい。こうしてここでで足をぶらぶらさせていると、自分たちが大きいのか小さいのかよくわからなくなって、心地よい浮遊感がありませんか」

「ん、そうだな」

「あ、あれ見てください、あの雲」

「あれか」

「そうです、あの雲、ち○ち○に似てません?」

 葛木由香李かつらぎのゆかりとはこのような人物である。

 十六歳にして歌壇で頭角をあらわす天才歌人にして官能小説家。

 どちらかというと後者の方が有名である通り、基本的に脳内は猥褻な妄想に充ち満ちているが、暗雲から差しこむ一筋の光明よろしく、ひょいと出てくる歌は絶唱の呼び声が高い。

 その評判を買われ雇われたのがこの屋敷というわけだ。

「ところで由香李」

「なんですか?」

「昨日は練習だったんだ」

「そうでしたね……行けなくてすみません……」

「いや、それはいいんだが……あー、やっぱり秋の歌は思いつかなかったのか? 管理人に文句をいわれたぞ。景観を壊すなって。お前も脚骼レガースの機能は知ってるだろ?」

「もちもちのろんろんです」

 といってふふんと胸を張ってみせる由香李を尻目に、俺は前に和泉に説明されたことを思いだしていた。

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