白い天井
ちゃぷん。
広大な海の水面に、ちょこんとシルピュアが顔を出した。
「……。終わったんですね」
『いや』
ちゃぽ。
シルピュアの眼前に、イカの剣の先がぷかりと浮かんだ。
『まだ大仕事が残ってるよ、シルピュア』
「……ああ、そうでしたね。この大量の海水、なんとかしないと……」
『うん』
「……でも、どうすればいいのか検討も付かないですよ」
シルピュアが嘆くのも無理はない。
『とんでもなく強力な古代生物を倒す』というのは、(たとえ不可能に思えるほど困難であったとしても)やるべきことは明確だった。
だが『王都を覆う巨大な海水をなんとかする』という課題には、あまりにもとっかかりがなさすぎる。
「それにウーロさん、誰も死なせないって話は結局どうなったんです? ……王都の人たち、間違いなくもうみんな亡くなってしまってますよね」
『いや。まだ誰も死んでいないはずだよ』
「え?」
『……彼女が自分の役割を果たしてくれていれば、だけどね』
●
その日王都アクォークセントは、海の底になった。
――が。海に沈んだわけではなかった。
突如として王都上空に現われた巨大な水の塊に王都民たちはどよめいた。突如として陽光が海に遮られ、都民たちは慌てて夜間用の照明魔法具で明かりを灯す。
明るさを取り戻した世界で彼らが初めに目撃したのは、落下してくる水の塊だった。王都中がパニックに包まれる。
そしてその水の塊が今にも王都を呑み込まんとしたとき――それは起きた。
王都上空に、白い膜が現われたのだ。
基本的には上空二メートルほど。それを越える高さの建物があったときには、その建物に沿うように。
白い膜は一瞬で王都全域を覆い、海という暴力から王都を守る。
さらに数秒で白い膜はどんどん分厚くなり、やがてその先にある海水は王都民たちから見えなくなった。
やがて最初の恐慌がある程度収束したあと、突如として出現した真っ白な天井を王都民たちは調査する。
氷だった。
王都を覆う純白の氷が、そこにはあった。
●
「……やれやれ、じゃ。目覚めていきなり、これほどの大魔法を使わされるとはの」
王都上空、およそ五十メートル。
ウーロとシルピュアの眼前に、ひとりの女性が浮かんでいた。
涼やかな青い髪に、宝石のような紫の瞳。
あどけなさと妖艶さの同居したその顔立ちは、ウーロとシルピュアの良く見知ったもので。
「……スフィラ王女?」
「いいや」
だがシルピュアの問いかけに、その女性は首を横に振った。
「その名は、妾の器のものに過ぎぬ」
「器……ですか?」
「ああ。アクォーク王家に伝わる秘術、
『……お願いがあるんです』
イカの姿をしたウーロが、空気を震わせて請う。
「聞こう」
『この海水を、安全な形でなんとか処理してほしいんです。それからその体もスフィラ王女に返してほしい』
「わはは! ……失礼。なかなか強欲じゃな、珍妙な姿をした生物よ。じゃが、妾がそのようにしてやる理由がどこにある?」
しゃん、と。
彼女が腕を振ると、どこからともなく氷の扇が広げられる。その扇で口元を隠して笑いながら、スフィラの姿をした彼女は告げた。
「まさか。……この
アクォーク王国建国の英雄にして、伝説的な氷魔法使い。
「……ウーロさん、これって」
『うん。おそらく、例のイカを蘇らせたのと同じ魔法だと思う。細部は微妙に違うみたいだけど……』
「
「……ウーロさん、意味わかります?」
『だいたいは』
いくつかの用語についてはウーロの理解も及ばないが、おおよそのところは以前ウーロが推測したとおりであるらしかった。
ひとつは
そしてもうひとつは、『死者に酷似した容姿を持つ者』の肉体に、そのまま死者を宿らせる方法。これがこの魔法の本来の使い方だ。王家に生まれた者たちを国防のための弾丸とする、ウーロの価値観においてきわめて邪悪な魔法。
そしてその邪悪な魔法がいま、スフィラの体に
(……他に方法はなかったと思う。彼女の助けがなければ、王都は間違いなく死の都になっていた)
だがその代償として、スフィラの体はいまや別の人間に使われている。
スフィラの体がスフィラの人格を取り戻しうるかは、
「……む?」
不意に。
ぴくりと耳を振るわせ、ウェザリアムが怪訝そうに目線を横に向けた。
空間に、黒い裂け目が入っている。
「……。なんじゃ、これは?」
『……ええと。どうもスフィラ王女は、その
「しばし待て。こやつの記憶を確認する。……ふむ。合意の元に交わされた誓約について、破った者に死を与える上級魔法具『誓約の黒薔薇』。これじゃな」
『なんか普通に話していたので、人格がウェザリアム様ならその縛りは無効なのかと思ってたんですが』
「わはは! どうもこやつの肉体を使っていれば、精神が妾でも反応するらしいのう。やらかしたわ」
『や、やらかしたって……』
十、五十、百……。黒い裂け目はどんどん増えていく。
数秒後、数えるのも馬鹿らしくなるほど大量にできた黒い裂け目から、一斉に黒い茨のようなものが飛び出してきた。
茨のひとつひとつは無数の棘に覆われており、確実に貫いた相手を殺すことだけを考えて作られたような造形をしている。
『ウェザリアム様!』
「ふん。案ずるな」
しゃんっ。
無数の茨がウェザリアムの心臓を貫こうとした、その瞬間。
ウェザリアムは片目をつむってみせ、扇を持った手を軽く振った。
たったそれだけで。
無数の茨が裂け目ごと凍り付き、動きを止める。
『……!』
「この程度の魔法具。妾の子孫に対しては脅しとして機能したようじゃが……」
しゃんっ。
ウェザリアムがさらにもう一度、片手を振る。
それで茨と裂け目はきらきらと輝く極小の氷の粒に分解され、海に落ちて消えた。
……裂け目が凍り、さらに氷に分解されるというのも意味不明な話だが。だがどう見てもそうとしか表現しようのない光景だったのだ。
「
『……。わかってはいましたが、本当に規格外ですね』
「わはは! 数百年越しであっても、妾を褒め称える声は耳に心地よいわ! ……じゃが」
扇越しに快活な笑い声を響かせつつも、ウェザリアムはじとりとした目でウーロとシルピュアを見つめる。
「そなたと同じ姿をした、あの白い古代生物。あれは妾にとってさえ常識の埒外にある存在じゃった」
『……ええ』
「それを打ち破ったそなたに、妾は興味がある。……それに妾とて鬼ではない。数百年の先輩として、そなたの要求についても話くらいは聞いてやるべきじゃろうな」
しゃんっ。
ウェザリアムがまた片手を振る。と、突然ウーロとスフィラの下から氷の足場がせり上がってきた。
久しぶりに固い足場を手に入れて、シルピュアは軽く息を吐いた。人の体に戻った全裸のウーロは、足下から来る寒さにくしゃみする。
「はくしょん!」
「わはは! さっそく本題に入ろうか。そなたが風邪を引く前に終わらせたほうがよかろうからな」
そして始まる。
あまりにも激動だったこの一日における、ウーロの最終ミッションが。
「この器を器に返し、ふたたび永き眠りにつく理由が――妾にあるか?」
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