王都アォークセントはルール上「海」として扱う

 中央大陸の南西部は魔族の勢力圏内であり、人間の都市や集落は存在しない。

 だから、を直接観測した人間はいなかった。


 ある種の価値観において、それは幸運であったと言えるだろう。もし目撃した人間がいたとしたら、間違いなくその人物は直後に発生した大規模な津波によって命を落としていただろうから。


 海の一部が、直方体状にくり抜かれて空に浮かんだ。


 高さおよそ五十メートル、底面は縦横それぞれ十キロメートルほど。

 およそ五百億トンの質量が、まるで重力など知らないかのように軽やかに浮かび上がった。


 そしてその水の塊は――国内外の各所で報告されたように――大陸の上空を横断し、大陸中心部にあるアクォーク王国まで飛来し。

 そして王都アクォークセントの真上で停止したかと思うと、そのまま直下に落ちた。


 五百年の歴史に渡り脈々と築き上げられてきた王都アクォークセント。

 世界でも屈指の大都市はこの日、なんの容赦も慈悲もなく、海の底になった。





「っはあ……っ! はあっ……!」


 海面に浮かぶシルピュアは、ただひたすらに呆然としていた。

 見渡す限り海、海、海。水底にあるはずの王都は影も形も見えず、地平線の果てまで美しい水面が広がっている。


 理屈の上では間違いなく、シルピュアはいま王都上空五十メートルの位置にいる。

 だがシルピュアはどうしてもそれが信じられなかった。この光景はまさに、話に聞く海そのものだ。


【落ちてくる厚さ五十メートルの水を剣閃で切り裂き、さらに海の切断面を蹴って上に駆け上がり、押し潰されることなく海の上に退避した。魔法もなしにだ。くは……。純粋に疑問なのだが、貴様本当に人間か?】


 海中にいるである偽の支配者フェイク・ルーラーから、やや呆れたような声が脳内に響く。


「お、王都の」

【ああ】

「王都の、王都の人たちは、どうなったんですか」

【むろん、全員死んだろうとも】

「――――!!」


 残酷なほどにあっさりと、その敗北宣告は下された。


【ふん。この海は俺に引き寄せられているから、位置によっては水圧は問題ないか。この場合浮力はどのように作用するのだろうな? まあいずれにせよ、ほとんどの人間は間違いなく溺死だ。何を当たり前のことを聞いているんだ】

「そん、それは――あ……」

【くは、本気で取るな。わかっているさ。確認の体を取った現実逃避だろう、それは?】


 偽の支配者フェイク・ルーラーの言葉は正しい。

 確認するまでもなく、シルピュアは理解している。


 スフィラ。王都都市警備隊の面々。よく行くパン屋のおじさん。いけ好かない王族たち。無邪気に大通りを駆ける子供たち。その他顔も知らないたくさんの人、人、人。

 自分が守るべきだった、守るはずだった人間たち。その生存が一人残らず、きわめて絶望的であること。


「あ――。――――――――」

【逃避、そして絶望を示す絶叫。その後は無気力か完全な発狂か。まあそのどちらも貴様には訪れない】


 たぷんっ。


【その前に俺が殺すか、ら――なに?】


 シルピュアは絶叫などしなかった。

 その代わりに大きく息を吸い、肺に空気を溜める。血が滲むほど強く刀剣を握りしめ、海中に体を踊らせる。


(――この場でのわたしの行動は、人類全体の存続に直結する。だから)


 あらゆる怒りと絶望を無視して、シルピュアは海に潜る。


 水を蹴る。蹴る。蹴る。深度およそ十メートルの位置にて対象を発見。


【くは。もはや愚かだな。詰みの状況において建設的な行動など存在しない。せめてその命を少しでも安らかに終えるために、心の命じるままに絶望していたほうが己のためだぞ】

(いいえ。あなたの手順を一手遅らせるだけでも価値はあります)


 頭の中でだけ答えて、スフィラは海中を蹴る。海中であるにもかかわらず、シルピュアの動きは異様なほど速く正確だ。

 だがそれでも――結局のところ、シルピュアは人間だ。


【くは。理解できないか? 我々の機動力はすでに逆転している】


 人間は、海で行動するように作られていない。


 地上でのそれと比べても、シルピュアと偽の支配者フェイク・ルーラーの戦いはあまりに一方的だった。

 シルピュアは攻め込むこともできず、ただ繰り出される触手の攻撃を払うのに精一杯だ。


(、まだ――!)


 そして、わずかにあったはずの希望すら。


【終わりにしようか】

(! 何も、見えな――)


 闇の中に消え失せる。


 闇系統初級魔法、暗転ブラックアウト。海の中で、シルピュアの視界は完全に暗転する。


【どれほどの強者であろうと突如として視界が奪われる状況には対処できない】

(……。ごめん、みんな。ごめん、お兄)

【改めて言おうか。――これにて決着だ。健闘を称えよう、人間の勇者】


 そして無防備なシルピュアの体に、百本の触手が殺到した。





 シルピュア・アンバーグリスは、虫が苦手だった。


「きゃああああっ!!」

「どうしたんだ、シルピュア!」


 アンバーグリス家はそれなりの田舎の領主で、その屋敷も自然豊かで優美な土地に建てられている。

 ……必然的に虫も多く出るわけで。屋敷の中でそれに出くわすたび、シルピュアは悲鳴を上げたものだった。

 

「お兄! 虫! 虫いる! 取って!」

「……泣いてるとこも人類一かわいいけどね、シルピュア。そろそろ虫くらい克服してもいい歳だと思うよ」


 そんなことを言いながらも、シルピュアが悲鳴を上げるたびに彼女の兄は即座に駆けつけるのだった。

 その都度シルピュアは涙で潤んだ目を兄に向けては、


「無理! 取って!!」


 そう懇願する。


「しょうがないなぁ、シルピュアは」


 そうするとシルピュアの兄はため息をつきながらも虫をつまみ上げ、窓の外に逃がしてくれるのだった。


「そこらへんの魔物くらいなら自力で倒せるくらい強いくせに、なんでこんなのが怖いかなぁ」

「だってぇ……」


 それはシルピュアの幼少期、何度も、本当に何度も繰り返されるやり取り。

 そしてこのやり取りは、いつも同じセリフで締めくくられるのだ。


「しっかりしなよ、シルピュア。こんなのに負けるな。だって君は――」





『――人類で一番強い、俺の妹なんだからさ』

(……お兄?)


 触手の連撃がシルピュアを貫く、その直前。

 すさまじい超加速で戦場に突っ込んできた一匹のイカが、彼女を触手で絡め取り、偽の支配者フェイク・ルーラーの攻撃から逃がしていた。


 その勢いでシルピュアは水を飲み、死ぬほど苦しい思いをしたわけだが――それが無数の触手に全身を串刺しにされて実際に死ぬよりマシな状況であることは、まあ疑いようがないだろう。


【……笑えんな。役立たずの影武者が、今さら何の用だ】

『悪いけど影武者業は自主退職させてもらうよ。その様子を見る限り、影武者は足りてるみたいだしね』


 海の底で響くその声は、少しだけ奇妙に聞こえたけれど。

 でもそれは確かに、幼少期から今日に至るまでずっと、世界で一番シルピュアを安心させる声で。


『ごめん、シルピュア。待たせた』


 ウーロテウティス・アンバーグリスが、そこにいた。


 イカの姿をしたウーロはそのまま海中を急浮上し、シルピュアはなんとか海面から顔を出すことに成功する。


「っはぁ! げほっ、かはっ!」

『あ、ごめんシルピュア! 水を飲ませちゃったね』

「げほ……いや、そんなことはいいんです。助けてくれてありがとうございます、ウーロさん」

『いやいや、間に合ってよかったよ。さすが世界一勇敢な俺の妹だ』

「……。いえ、ウーロさん。間に合ってはいないんです」

【その通り】


 水面に浮かぶウーロとシルピュアを取り囲むように、十の影がぐるりと姿を現わした。


【ヒロイックな登場ではあったが、少しばかり遅かったな。王都はすでに海に沈んだ】

「……そもそもこの状況を打開する手段がありません。海中で機動力の落ちたわたしが百本の触手に対抗する手段はもう残っていません」

『四と七』

「え? ……あ」

『弱音を吐く前に本当にすべての情報を検討したかな、シルピュア。俺の妹は世界一強いんだぞ。たかが触手が伸びて増えるくらいの生物に勝てないはずがないだろ』


 それにね、とウーロは続ける。


『――俺はまだここからでも、ひとりの命も失わずにあのイカを倒すつもりでいる』

【――! くは、大言壮語もここまで来ると見事だな】

「そ、そうですよウーロさん。そんな奇跡みたいな――」

『はは。大言壮語も奇跡も、教祖様の基本スキルだよ』


 嘯いたウーロの気配がシルピュアの下から消える。

 海中に潜ったのだ。海中に潜む標的、偽の支配者フェイク・ルーラー本体を狙うために。


【本気らしいな。――いいだろう】


 ぞわりと十の影が動く。


【夢見がちな誇大妄想患者に、教えてやるとしよう。現実というやつをな】

『シルピュア。そっちの影はまとめて任せたよ』

「……もう! 信じますからね、ウーロさん!」


 そうして、最後の戦いがはじまった。

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