ゲソゲソゲソゲソゲソゲソゲソゲソゲソゲソ
【…………。どいつもこいつも、本当に俺のことを舐め腐ってくれるな】
「舐め腐りもするさ。俺が意識を取り戻していたことにも気付かず、脚を切り落とされる醜態。散々余裕を見せておいてこのザマだからね」
大剣をゆらりと揺らして追撃の準備にかかるウーロに対し、水槽のイカは愉快げな笑い声を脳内に響かせる。
【くは。耳が痛いな】
「ないだろ、耳。ついでに手もなくなってるみたいだけど」
【ああ……。それについては心配無用だ】
するすると。
切り落とされて根元だけになっていた水槽のイカの触手が、数瞬で元の長さにまで伸びた。
【なにか期待をさせたのなら申し訳ないが。この程度はダメージのうちに入らない】
「……どこまでも、俺の知ってるイカとは違う生き物らしいね」
うんざりした顔でウーロは顔をしかめる。
【そもそも虚勢を張るな、影武者風情が。いまだショック状態でほとんど動かない体を、気力だけで無理やり動かしている状態だろう?】
「まさか。たっぷり睡眠を取らせてもらったおかげで、今の俺は元気いっぱいだよ」
【くは。やはり嘘つきだな、貴様は】
唇は青黒く濁り、震えを強引にかき消した脚の筋肉は不自然にこわばり、黒く沈む瞳は意識と無意識を絶えず往復する。
ウーロは一瞬の間隙を縫ってスフィラを救出したが、実のところ倉庫内のパワーバランスは何も変わっていないのだ。
そこにいるのは圧倒的な強者と、無数の弱者たち。
「ぁ……く、」
うしろでスフィラがふらつく気配を感じて、ウーロの焦りはより強まった。
魔力を吸収する
「うーろ、さま」
「……うん。やむを得ませんね。ここはいったん逃げましょう」
【ああ、実に賢明な判断だ。だが俺が逃がしてやるとでも?】
水槽のイカがまとった水ごと浮かび上がり、ウーロたちを嗤う。
【王女はともかく、影武者に利用価値はない。――死ね】
ウーロが床を蹴り、スフィラの手を掴んで倉庫の出口に走る。
そしてそれと同時に、無節操に伸びる十本の触手がウーロを追いかけた。
よろめきながら歩くふたりと、矢より速く飛ぶ触手。速度の差は明白だった。
一瞬で触手はウーロたちに追いつき――
「ふむ。楽しみですね」
そして、切り落とされた。
【……また邪魔者か。なにが楽しみなんだ?】
「以前ウーロさんから聞いたところによると、イカの脚は切り落として軽く火を通すと旨いそうです。あとでいただきましょう」
白銀の髪をなびかせて、シルピュア・アンバーグリスはそう答えた。
●
「っ、はあ、はあ……」
間一髪でシルピュアに助けられたウーロは、意識をもうろうとさせているスフィラに肩を貸しながらなんとか第四倉庫の出口にたどり着いていた。
あまりにも強大な敵の相手を(世界一強いとはいえ)妹に押し付けて逃走する、というのはなかなかに兄失格の選択ではあった。だが実際のところ、それが最適解であることもまた事実だ。
「うー、ろ。さま」
「! スフィラ王女。もう少し耐えてください。すぐに魔力を吸収する魔法の範囲外に出ますから……」
「こっちじゃ、ありませんわ。あちらの、ほうに」
息も絶え絶えのスフィラが指さしたのは、倉庫を出たあと直進せず、むしろ120度ほど折れ曲がって進む方向だった。そちらに逃げろ、という指示らしい。
普通に考えれば、それは意味不明の指示だ。
今はともかく少しでもはやく
錯乱したスフィラが意味不明なことを言っている、と判断してもおかしくない場面。
「わかりました。こっちですね」
だがウーロは、迷わずスフィラの言葉に従った。
「ありがとう、ございます」
つぶやくようにスフィラが言う。
そのままふたりは、よろよろとスフィラの示した道を歩いた。ウーロの体にも力が入らなくて、支えているのか支えられているのかよくわからなくなりながらも、ひたすら歩いた。
無限にも感じられるほど長い、だが実際には数分にも満たない時間が経過して。
「……ぁ」
そしてようやく、ふたりの体に付きまとい続けていた喪失感が消えたのだった。
●
【純粋に疑問なんだがな】
ウーロたちを見送りながら、水槽のイカはシルピュアに問いかける。
【貴様はなぜ、俺の前に立ちはだかろうとするんだ? 力量の差がわからんわけでもなかろうに】
「さっきスフィラ王女が言ったことを聞いていなかったんですか?」
【なんの話だ】
「あなたは害獣だ、と言っていたでしょう」
逃げるウーロとスフィラを庇うように立ち位置を調整しつつ、シルピュアは細身の刀剣を挑発するようにくいくいと動かす。
「害獣駆除は都市警備隊の管轄なんですよ。王都都市警備隊隊長シルピュア・アンバーグリスとしては、あなたを見逃すわけにはいきませんね」
【くは……。勝ち目がなくてもか?】
切り落とされたはずの手足が、またしてもするすると再生する。
「トカゲはしっぽを切られても死にませんが、体を真っ二つにされたら死ぬ。あなたも大して変わらないでしょう」
嘯いてシルピュアは刀剣を構える。
そして第四倉庫で、シルピュアとイカの一騎打ちが始まる――かに、思われたが。
「……え?」
【悪いが】
目の前で起きたことに理解が追いつかず、シルピュアは一瞬その場で立ち尽くした。
【いまお前に付き合ってやるつもりはない】
「は……はあ!? あんだけ偉そうなこと言っといて、逃げの一手ですか!?」
水槽のイカは身に纏った海水ごとふわりと浮き上がり、天井をぶち破って倉庫の外へと出て行ったのだ。
【くは……。そう言ってくれるな。少し腹が減ったので、食事休憩を挟みたいだけだ】
「……ち。逃がしませんよ」
たん、たん、たたたたたた、たん。
設置されたわずかな設備類を足がかりに、シルピュアが倉庫の壁面を駆け上がる。
天井付近まで到達するとそのまま壁を蹴って跳躍し、空いた天井の穴に手を掛ける。そのままくるりと体を回転させ、自分を屋根の上へと運んだ。
身に纏った海水とともに空中を泳ぐイカの姿を視認。すぐさま屋根の上を走り、追跡を開始する。
「ああもう。よりにもよって王都の中心部のほうに!」
王都の空上、イカと人間の奇妙な追跡劇が開始された。
●
(……。まずいですね)
空を泳ぐイカを追いかけること十分ほど。
想像以上の状況の悪さに、シルピュアは歯噛みしていた。
どうやらイカが王都中心部のほうに向かったのは偶然ではなかったらしい。この十分間、イカは明らかに人通りが多い方を目指して移動している。
そしてその目的も、シルピュアにはすでにわかっていた。
「がっ!? く、苦し……!」
「な……なんだよこれ。急に、息が、できなっ」
(王都中の人間から、魔力をかき集めること。それがこのふざけた生き物の狙いのようですね)
わかってはいる。だがわかっていても、どうしようもない。
通り過ぎるだけで体から一定範囲内の人間の魔力が吸い取れるのだ。どれだけ剣技が優れていようが、こればっかりは防ぎようがない。
さっきからイカを追跡しながらも、何度か攻撃を仕掛けてはいる。
だが回避と逃走に徹されている状態で、しかも相手は何度切り落としても再生する触手を備えているのだ。いかなシルピュアといえども効果的な一撃を入れることはできず、ただ追跡劇の時間だけが嵩んでいく。
【くは……】
そんな終わりの見えない追跡劇の終わりは、しかし唐突に訪れた。
【実に驚きだ。魔法なしの純粋な身体能力のみで、よく空を泳ぐ俺に付いてこられるものだな】
「……急に足を止めましたね。みっともなく逃げ回るのはもうやめたんですか?」
【逃げることは決して恥じゃあないが、お前のごときから逃げるような真似はしないさ。ちょっとした準備をしていただけだとも】
「そうですか、それはよかった。では……」
瞬間、シルピュアの姿が消える。
「斬りますね」
【くは】
否、正確には消えてはいない。そう見えるほどの速度で、シルピュアの体がイカに向かって跳躍したにすぎない。
並の相手ならば斬られたことにすら気付かないほどの、超高速の斬撃。
そんなシルピュアの攻撃は、
【言ったろう。準備をしていたと】
「……どこまでも、厄介な」
三十本の触手に迎撃され、イカ本体に届かない。
【影写しの魔法だ。この時代になんと呼ばれているかは知らんがな】
本体と同性能の影でできた分身を生成する、闇系統の中級魔法だ。
いまイカの両脇には影でできたイカが一体ずつ、合計二体並んで浮かんでいる。
【繰り返し忠告しておくが、都市警備隊隊長。逃げることは決して恥じゃあないぞ。彼我の戦力差を判断できないほど愚かではないだろう?】
「……舐めないでください。ウーロさんは魔候三体を同時に相手取ったんですよ。たかが触手がよく伸びる害獣のごとき、三体同時でも余裕で……」
【ああ、誤解させて悪かったな】
影が、増える。
二体だった影が三体に増え、四体に増え。
「……。ち」
【くは……。さて、都市警備隊隊長、シルピュア・アンバーグリス】
本体を含めて十体のイカが、王都の空上でシルピュアと対峙する。
【逃げないというならいいだろう。支配種たる生物の格の違いを、貴様に教えてやるとしようか】
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