ゲソ
「おい、本当なんだろうな? 何かの間違いじゃないのか?」
「い、いえ。少なくとも魔法具が救援信号を受理したことは間違いありません」
「ちっ……。そうかよ、ゴミが」
王都都市警備隊隊員詰め所。
普段は隊員たちの賭場と化しているこの場所が、今日は妙に騒然としていた。
「第一小隊、全員出撃準備できました。先行して現場に向かいます!」
「待てバカ。出撃できる奴が全員揃うのを待て」
「は……。しかし副隊長、救援信号があった場合、出撃準備が整った隊から速やかに現場に急行するというのがマニュアルですが……」
「普通の救援信号ならな。状況を見ろボケ。戦力を小出しにしていい相手か考えろ」
副隊長と呼ばれた壮年の男が、苛立たしげに新兵をはたく。
「半端な戦力じゃ一瞬で全滅させられるに決まってんだろ。ウーゼル通りの第四倉庫にいるのは、あのバカみてえに強いうちのクソ隊長……シルピュア・アンバーグリス様が救援信号を出した相手なんだぞ?」
●
その、ウーゼル通り第四倉庫で。
スフィラ・アクォークは足下に転がるウーロには目もくれず、水槽のイカに微笑みかけていた。
「ああ……。白く透き通った肌。美しくも妖しいその造形。何度見ても、完璧なお姿ですわ……!」
【くだらない話はいい。頭を使え、スフィラ・アクォーク。俺の側用人として、お前が今成すべきことはなんだ?】
「……もちろん、わかっていますわ! この世界についての知識を提供すること。文化レベル。人間以外の主要な種族。それらの戦闘能力。それから、あなたを蘇らせた秘法について!」
【そうだ。わかっているならさっさとしろ】
「もちろんです! ……あ、でも。その水槽、水が漏れていますわね」
スフィラが水槽を指し示す。たしかに、水槽には小さな穴が空いていた。
ヘイティアを突き刺したときに空いた穴だ。スフィラに触手を伸ばしたときも、この穴に触手を通していた。
いちおう通常よりもかなり強固なガラスを使っているはずなのだが、水槽のイカが空けた穴はごく小さな一点のみだ。周囲にヒビすら入っていない。
人智を越えた剛力が、ただ一点だけに与えられたことの証明だった。
とはいえ、穴は穴ではある。
その小さな穴からは、こうしている間もごく少量ずつの海水が漏れ続けていた。
「この状態では落ち着いてお話もできませんわ! 隣の倉庫にも水槽がありますので、そちらにお移りいただきましょう! そこならゆっくりできますわよ!」
【いちいちそんな……。いや、いいだろう。その隣の倉庫の水槽とやらに案内しろ】
「ええ、承りましたわ!」
周囲の信徒たちは完全に意識を失ってしまったらしく、もはやうめき声ひとつ聞こえない。
そんな倒れ伏した彼らに背を向けて、スフィラは水槽へと駆け寄った。
「お運びします! この水槽、下は滑車になっているので
【ああ、早くしろ】
「ええ! お任せくださいまし!」
がこん。
【……待て、スフィラ・アクォーク。今の音はなんだ?】
「滑車がなにかにぶつかったのですわ! 申し訳ありません。もっと丁重にお運びしなくては……」
【水位が減っていく。……裏切ったな、愚かな女が】
今度は水槽に十個の穴が空いた。水槽のイカが伸ばした触手が、スフィラ・アクォークを絡め取る。
十本の触手に四肢を拘束されたスフィラ・アクォークは、それでもにっこりと微笑んでみせた。
怒りに頬を紅潮させ、恐怖と悔恨に瞳を潤ませながらも。それでもなお、人の矜持を示すように。
「もう間に合いませんわ! 別の場所に水を流すことを考えず、ただ水槽内の水を減らすことだけに特化した超高速の排水設備! 二段底のおかげで、あなたの位置からはそれが見えなかったのですわ!!」
【……。くは、備えはあったわけか。俺の生き枯れの魔法で即座に気を失ったそいつが、本来いざという時にこの設備を起動する手筈だったのだな】
「あなたはたしかにウーロ様とは違う生物のようです。しかし海水が必要である、という一点は変わらない。体の構造からも、歴史上のイカの目撃情報の分布からも、あなたが頑なに水槽を出ようとしないことからも、それは明らかなのですわ!!」
ふたりが言葉を交わすわずかな間にも、水槽の水は急激にその量を減らしていく。
海水は倉庫にぶちまけられ、水位はすでに水槽の半分以下にまで下がっていた。
【お前の演技力は賞賛に値するな、人の子よ。最初からこれを狙っていたというわけだ】
「……気に入らなければ、
【くは……。くはっ。くははははっ。……ああ】
スフィラ・アクォークの推測は正しかった。
イカの生存には海水が不可欠。それは高級食材として食卓に並ぶケンサキイカでも闇魔法を操る最強生物でも変わらない。
ただ一点、誤解があったとすれば。
【心底愚かだな。卑劣な背信者よ】
「……え」
目の前にいる生き物が、人間の想像の範疇を遥かに越える強者であったということ。
【おや、おやおや。おやおやおや。そんなに意外だったか? たかだか排水設備とやらで俺を殺せなかったことが】
「そん、な……」
海水はたしかに水槽からあふれ、倉庫の床にぶちまけられていたはずだった。
その海水がいま。たしかに水槽のイカを包んでいる。
まるで磁石に集まる砂鉄のように、散らばった水が水槽のイカに吸い寄せられたのだ。
一部は水槽の下に空いた排水設備から、一部は水槽の上部から、一部は水槽に空いた小さな穴から。それぞれが音もなく自らの持ち場に戻り、水槽のイカを守る海水の一部となった。
水槽の水は、元の水位まで戻っていた。
まるで排水設備の作動など、スフィラの裏切りなど最初から存在しなかったかのように。
「……これもまた、闇魔法の一部ですの?」
【言ったはずだ。闇とはすなわち吸収する力。ならばこの程度の芸は児戯に等しい。とはいえ、貴重な魔力を消費させられたことは腹立たしいがな】
みしりと体が軋み、スフィラはうめき声を漏らした。
水槽のイカの触手が、それぞれがスフィラの体を外側に引っ張ったのだ。
【くは……。お前にとって極めて残念なことだが、稚拙な反乱は失敗に終わった】
「あ、が……!」
【だが俺は寛容だ。もう一度悔い改める機会をやろう】
脳内に響く声にわずかな苛立ちをにじませながら、水槽のイカは語る。
【いい加減理解できたはずだ。俺は真に最強生物であり、人間どもの浅知恵でどうこうできる存在ではないと。支配者にふさわしいのがイカという種族であると】
「……ぅ、く」
【まあ……裏切りの罰が何もなしでは締まらんからな。腕くらいはもがせてもらうが。しかしお前の命は助け、引き続き俺の側用人として使えることを許そう】
全身が軋む激痛の中でも、スフィラは認識していた。
【先ほども述べたはずだ。俺こそが完璧な支配者に他ならない! 人とは隔絶した力を持ち、人のちっぽけな利害にとらわれない価値観を持つ。同族が殺されることへの本能的な拒絶を捨て、客観的に俺を見ろ! お前の思い描く理想の支配者と俺の、どこに違いがあるというのだ!】
「……一から十まで」
【…………。なんだと?】
「一から十まで、なにもかも違いますわ!」
スフィラ・アクォークは。
全身に走る激痛が強まったことも無視して、ただまっすぐに目の前のイカを見つめていた。
「というか! さっきから長々と話してらっしゃいますが、あなたのお話は全部まとめてクッッッッソくだらないんですわ!!」
【……貴様】
「ただ強くて人間と違う価値観があればいいなら、
びちん。びちん。
引っ張られた自分の皮が裂け始めた音を聞きながら、それでもスフィラは不敵に笑った。
「さっきから長々と話していたのも、すべては
【……。ああ。どうやら、本当に命は惜しくないらしいな】
「くたばれ害獣、ですわ!」
全身に、骨がつるような感覚。
ああ、これが四肢をバラバラに引き裂かれる直前の感覚なのか。スフィラ・アクォークはそう悟って――
【死ね】
そして。
胴体から切り離された手が、第四倉庫の冷たい床の上に転がった。
――ただし。
【……。は?】
「ああ……。くらくらする」
胴体から切り離されたのは、水槽のイカの十本の触手だったわけだが。
「頭に血が上って、ようやく周囲への警戒を解いてくれたね。……いや、イカの頭はけっこう下の方にあるか」
【……驚いたな。想像を絶する激痛だろうに、まさか意識を保っていることができようとは】
「まあ、苦痛には慣れてるからね」
濡れた額に張り付いた白銀の髪に、いつの間にか握られている体より大きな剣。
そこに立っていたのは紛れもなく、
「ウーロ、様……?」
「ごめんなさい、スフィラ王女。謝らなくちゃいけないことは本当にたくさんあるんですが」
スフィラのほうを振り返らず、ウーロは答える。
「今はとりあえず、目の前の問題を片付けます」
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