王女は夢を見る

 ウーロテウティス・アンバーグリスは二周の人生で最も強く、自分の愚かさを呪った。


 スフィラ・アクォークは頭が良いし、優秀な海洋生物学者でもある。

 その彼女がそう信じているという事実を、なぜ自分は軽視してしまったのか。


 剣崎唯伽が住んでいた世界とウーロが住んでいる世界は、まったく別の法則で動いている。

 なぜこの世界のイカが、かつて自分が見たものと同じ生物だと思い込んでしまったのか。


 後悔してもしきれないが、時間は巻き戻せない。

 そこにはただ、事実があるだけ。


【さて……。人の子らよ。俺に世界の支配者になってほしいんだったか?】


 


【構わんよ。刻み込んでやろうじゃあないか。愚鈍な時代に、俺という絶望を】





「あ……あ……」

「……ひ、き、」

「きゃあああああああああっ!!!!」


 水槽のイカの突然の凶行にスフィラが立ち尽くしているのをよそに。

 第四倉庫に、信徒たちの悲鳴が響き渡った。


「お、おい。なんだ? 前のほう見えねえよ。どうなったんだ?」

「へ……ヘイティア王女が殺された! イカに殺されたんだ! 逃げろ!」

「どけ! おい、どけって言ってるだろ!」


【おや。変わっているな、スフィラ・アクォーク。この時代の人間は、このようにして歓待の意を示すのか?】

「い……いえ。違います。その、わたくし、たちは」

【本気で取るな。くは。いつの世も変わらぬものだな、弱者の行動というものは】


 水槽のイカはヘイティアの胸から触手をずるりと引き抜く。

 顔面蒼白のヘイティアはわずかに息を吐き、どさりとその場に倒れ込んだ。


【感情のまま騒ぎ立てるばかりで、何の役にも立ちはしない。よかろう、せめて俺の糧となるがいい】


 瞬間スフィラは、世界がどくんと鼓動したのを感じた。


「が……あっ!?」

「あ……」

「く、え」


 直前まで逃げまどっていた信徒たちが、次々と倒れていく。


「闇系統上級魔法、『枯渇ニュートラライズ』……!」

【ほう? この時代ではそんなふうに呼ばれているのか。そう。闇とはすなわち吸収する力。この生き枯れの魔法は、空間内の魔力をすべて俺の元に吸い込む】

「あ……あの! や、やめてくださいまし!」


 自分に対して抗議の言葉を投げかけたスフィラに、水槽のイカは無機質な黒い瞳を向ける。


【なぜ?】

「このままではみんな、みんな死んでしまいますわ! 魔力が完全に枯渇してしまえば……」

【それで何が困る?】

「な、何がって、それは!」

【……くは。本気で取るなと言うのに。同族の死に忌避感を覚えるのは生物としての本能。俺とてそれは理解している。俺とお前の価値観には大いなる隔たりがあることもな】


 信徒たちのうめき声をBGMに、水槽のイカの語りは脳内で優雅に響く。


【だがスフィラ・アクォーク。人の世を終わりに導く端緒を開いた、最も賢明で最も愚かな王女よ。その人の次元を超越した価値観こそ、お前が求めていたものではないのか?】

「……! それ、は……!」

【くは。俺はお前の演説をすこし聞いただけだが、それでもおおよそのことは察せられる。相も変わらず人という生き物は、己の矮小な狭い穴を通して世界を覗いては、井戸の底で互いの足を引っ張り合っているのだろう?】


 水槽に空いた穴から、イカの触手がするすると伸びてくる。先ほどヘイティアに触手を突き刺したときもそうだったが、明らかに元々の長さを越えても伸び続けている。

 その触手がスフィラの右手に触れ、彼女の体がびくりと震える。


【イカという種族に目を付けたのは慧眼だった。俺たちは人間のごとき矮小な存在とは根本から異なる種族だ。約束しよう。俺が世界を支配すれば、二度と人間どもの下らぬ争いは起こらないだろう】

「あ……」

【そしてイカという種族には、支配それを実現させるだけの力がある。本物の闇魔法は先の手品とは比較にならない。人間もその他の種族も、逆らう者はあまねく俺が討ち滅ぼしてやる。どうだ、死にいく国の王女よ。

「……い、いえ。真実の指輪ラーソンリングは、その。一度も反応していませんわ」


 スフィラの右手薬指に光る真実の指輪ラーソンリング。母親の形見であるこの指輪は、触れている相手の嘘を見抜く。


 水槽のイカがどのようにしてこの指輪の機能や発動条件を見抜いたのかスフィラにはわからない。

 だが少なくとも、真実の指輪ラーソンリングが一度も反応しなかったことは事実だ。水槽のイカの一連の言葉に、嘘は含まれていない。


「あ……が。苦し、い……っ」

「すふぃらさま、たす、け」

【お前やこの愚物どもが俺を恐れる理由はわかっている。お前たちは世界を支配するというのがどういうことか、真剣に考えていなかったのだ。真の支配者ルーラーなる存在がすべてを救ってくれるという夢物語に酔うだけで、その実行に付随する死と痛みについての考慮を放棄していたのだ】

「それ、は。……その通り、かもしれませんわ」

【くは……。さて、スフィラ・アクォーク。長々と弁舌を披露したのは、俺が知りたがっているからだ。俺を蘇らせた王女が、この現世における側用人として俺に奉仕するだけの知性を持った人間であるか。あるいは今際の際にあっても己を改めようとしない救いがたき愚物であるか。前者ならばお前は生かそう。だが後者であれば、すみやかに殺す】


 すなわち。

 この水槽のイカに従って、奴隷として支配の手助けをするか。

 あるいは、他の信徒たちと同じようにこの場で悶え死ぬか。


 水槽のイカがスフィラに提示した、それがこの二択だった。


 イカの触手はスフィラの右手に触れたまま。

 真実の指輪ラーソンリングは、反応していない。


「あああぁ……。しにたくない。しにたくない……」

「くるしい。くるしいです。たすけてください、かみさま……」

「…………。みなさん」

【くは、ひとつ忠告しておくが。元の魔力量が大きい人間ほど、魔力を吸われたときの苦痛は大きい。俺はいまお前を生き枯れの魔法の対象から除外しているが、もしそれをしていなければ。お前はそこの信徒どもとは比較にならないほどの苦痛を味わい、一瞬で意識を刈り取られるだろう。……こいつのようにな】


 水槽のイカは、スフィラに触れているのとは違う触手の一本を、一段底の下に潜らせる。


 そしてずるりと引きずり出された男を見て、スフィラは悲鳴を上げた。


「ウーロ様!」

【保有する魔力量の多さゆえ一瞬で意識を奪われ、水槽が二段底になっていたがために浮かび上がってくることもできなかった。くは、だいぶ水を飲んでいるな。すぐに死ぬだろう】


 べちゃり。

 全裸のウーロがスフィラの目の前に放り出された。顔は青ざめ、ほとんど死人のようだ。

 あわててウーロに駆け寄ろうとしたスフィラの体を、水槽のイカの触手が押しとどめる。


「そん、な。なんてことを。ウーロ様はあなたの同族でしょう? さっきあなたは、同族の死に忌避感を覚えるのが生物だと……」

【くははっ! 同族! 同族と言ったか、どこまでも愚かな王女よ! そんなものは俺の同族ではない!】

「……な、にを」

【ああ! ああ、ああ、ああ! まだわからんのか! いや、わかってはいても受け入れられんのか!! そこな男は、我ら偉大なるイカとはまったく別の種族。ただの人間だ!】


 水槽のイカの触手が、優しくスフィラの頬を撫でた。


【哀れなものだ。どうやらお前は騙されていたのだよ、スフィラ・アクォーク】

「う、そ。そんなはずは。ウーロ様は確かに、魔族をすべて滅ぼすと。人間はすべて救うと……」

【その指輪で聞かなかったのか? あなたは本当にイカですか、という根本的なことを。闇魔法を使えない理由はなんと言い訳していたのだ? 気絶したときにそうして人間の姿を晒しているのはなぜだと思う?】

「そ、あ、そんな……」

【なぜお前がそれほど、この男を信用していたのかは知らんが、結局のところこの男も他の人間と同じ。己の利のためにお前を利用していただけだ。自分がイカであるとお前に信じ込ませ、この教団を意のままに操るためにな】


 スフィラの目の前に倒れているウーロは、明らかに瀕死の状態だ。

 今すぐに処置をしなければ命に関わる。イカの触手も、もはやスフィラを止めようとしてはいない。


 だがスフィラの足は、動かなかった。


【狡猾な男ではあったのだろう。だが不運にも――お前にとっては幸運にも、俺が蘇った。本物の力と本物の意思を持った、真に支配者たる生物が】

「あ……」


 水槽のイカの触手が、優しくスフィラの頬を撫でる。


 スフィラはその触手に手を添え、そっと握った。


【スフィラ・アクォーク。最も幸運な王女よ】

「はい」

【俺と来い】

「………………。はい」


 頬を赤らめ、瞳を潤ませ。

 まるで恋する乙女のように、スフィラ・アクォークはうなずいた。

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