断章:スフィラ・アクォーク

「……うん。なかなかいい感じじゃなイカしら!」


 鏡に写った自分の水着姿を見て、スフィラ・アクォークは満足げにうなずいた。

 スフィラのやや特殊なオーダーにも可能な限り答えてくれている。発注した日の夜にすでにこの商品が納品されているというのは、さすがに王家御用達の服飾店といったところか。


「これさえあれば、もっとスムーズにウーロ様のお体を調べさせていただくことができますわね!」

「なんだか楽しそうね、スフィラ。その服は新しく買ったの?」

「あ……。ヘイティア姉様」


 不意にうしろから声を掛けられて、スフィラは驚いて振り返る。

 アクォーク王国第三十四王女、ヘイティア・アクォークがそこにいた。

 濡れるように黒い美しい髪に、ぷっくりと膨らんだ唇。いかにもな美人だが、義眼になっている右目の無機質さが全体にアンバランスな印象を与えている。


 スフィラとは違ったタイプの美人で、顔立ちは似ていない。それはふたりが異母姉弟であるがゆえだ。

 スフィラとヘイティア。ほとんど同じ時期に生まれたふたりの姉妹は、数多くいる兄弟姉妹の中でも特に長い時間を共に過ごしてきた。

 もっともそれは、


「それにしても……ぷっ。なにその服、ダサすぎでしょ。それで舞踏会に出るつもり? ま、歌も踊りもできない行き遅れ確定のスフィラには、そのくらいダサいのがお似合いかもね」


 必ずしも、ふたりの仲が良好であることを意味しないのだが。


 幼少期はそれなりに仲の良い姉妹だった、という記憶がスフィラにはある。だがいつの頃からかヘイティアはずっとスフィラにきつく当たるようになり、それは今に至るまで続いている。

 なぜ姉は自分を嫌っているのか。嫌っているのに、なぜ自分に付きまとってくるのか。

 ヘイティアとの姉妹歴はもう十八年になるが、いまだにスフィラはそのあたりのことが理解できないでいた。


「そういえばこの前のパーティで、モブラン男爵がアタシのドレスのセンスがいいって言ってたのよね。スフィラ、アンタにもちょっと服選びのアドバイスしたげようか?」

「い、いえ。わたくし、お洋服は自分なりの基準を持って選んでいますので……。それに、舞踏会にこれを着て出るわけではありません。これは水着ですわ」

「水着ィ? あは、あのね。最近の水着はもっと肌の露出が多いのがトレンドよ。あんたそれ、商人に舐められて型落ち品でも掴まされたんじゃない?」

「いえ! これで注文通りなのです。できる限り男性の劣情を煽らない水着にしてほしいと、わたくしがお願いしたのですわ!」


 スフィラの身に付けている水着は、ウーロがかつていた世界で『スクール水着』と呼ばれていたものによく似ていた。

 肌の露出を極力抑え、なおかつしっかりと動きやすい。最近流行しているビキニ型とも少し前まで主流だったワンピース型とも違う。スフィラの要求に完璧に応えたこの水着を短期間で用意した服飾店は、可能な範囲で最大限の努力をしたと言えるだろう。


わたくしの体はただでさえ男性の劣情を煽りがちなので、難しい注文かとも思いましたが……これなら大丈夫そうです。さすがスアベスの職人さんですわ!」

「は? なにそれ。男性の劣情を煽らながちな体してるアタシへの嫌味?」

「そ、そんなつもりはありませんが……」

「あっそ。まあいいわ。てかアタシも暇じゃないんだから、さっさと本題に入るわよ」


 言ってヘイティアはスフィラのベッドに腰を下ろした。整えられたシーツがぐしゃっと乱れる。


「アンタが言ってた、例の儀式について。アタシのほうでも何人か集めれそうよ」


 ヘイティアの言葉に、スフィラがぱっと顔を明るくした。


「まあ……! 本当ですの!? それはとても助かりますわ!」

「ふんっ。本当に感謝しなさいよね。アタシみたいな優しい姉、なかなかいないわよ? アンタが勝手に怪しい宗教団体を作ってるって知ったのに、お父様に報告しないでおくだけじゃなく協力までしてあげてんだからね」

「ええ……。本当に感謝しておりますわ、ヘイティア姉様!」


 『アンタ、面白そうなことやってるじゃない』とヘイティアが声を掛けてきたのは、ほんの一月ほど前のことだった。

 『たまたまアンタと信者が話してるとこを聞いたのよ』と言っていたが、それが事実かはスフィラにはわからない。ただ間違いなく、ヘイティアは王国イカ教会の存在を知っていた。


 当然だが、勝手に宗教団体を作っていたことが公になればスフィラは一巻の終わりだ。

 現状すでに『規模の大きい宗教団体がある』というくらいのことは王宮に認識されていてもおかしくないが、あまり詳しいことは把握されていないはずだ。少なくとも、スフィラが関わっていることはバレてはいない。

 しかしもしヘイティアが王宮に告げ口でもすれば、状況は一変するだろう。

 王女による通報ならまず無視はされないだろうし、正教憲兵隊が本格的に調査に乗り出せば、王立イカ教会ほど規模の大きな団体の実態は隠しおおせない。


 だが実際のところ、そうはならなかった。

 ヘイティアは告げ口しようとはしなかったし、それどころか彼女は『アタシもアンタの教団に入れてよ』などと申し出てきたのだ。


 スフィラとしてもかなりの驚きだったが、断ることはできなかった。

 なんせ最大の弱みを握られている状態なのだ。意図を計りかねながらも、ヘイティアの入団を認めざるをえない。

 それにどこか、スフィラには嬉しさもあった。常に自分と対立してきた年の近い姉が、自分に歩み寄ってきてくれた気がしたからだ。


「あ、あとさ。例のあいさつ回りも終わったわよ」

「まあ! 数日前にかなりの人数分を渡したはずですが、もう全部回り終わりましたの?」

「当ったり前、あのくらい余裕よ。ふふんっ! みんなアタシを見て大喜びしてたわ。あのヘイティア王女がうちなんかに来てくれるなんて―、って」


 教団員たちへのあいさつ回り、というのもヘイティアが言い出したことだった。

 王女が自らの足で自分の家に来てくれるというのは、たしかに信仰心を強固にするために有効だ。

 だが労力の掛かることでもあるし、信徒たちに自分が教団員であることを晒すことにはリスクもある。

 

 すでにかなり大規模な宗教団体となっていた王立イカ教会全体から見れば、ヘイエティアの貢献は微々たるものではある。

 それでもスフィラは、姉の提案が心から嬉しかった。


「だからまた、新しく信者の名簿よこしなさいよ。アタシと言葉を交わせる幸せな平民のリストをさ」

「え、ええ。用意しますわ」

「早くしてね? アンタと違って、アタシは暇じゃないから」


 ……相変わらず口は悪いし、スフィラに対する当たりが強いことにも変わりはないが。


「てかさ、いい加減教えてよ。結局その儀式の日って何をする予定なわけ?」

「……ごめんなさい、ヘイティア姉様。それは言えないんですわ」

「は? っとにムカつくわね、アンタ。……ま、いいわよ。当日になったらわかることなんでしょ?」

「ええ、その通りです。もちろんヘイティア姉様には最前列で儀式に参加していただけるよう手配しますわ!」

「当たり前でしょ、そんなこと。アタシがどんだけアンタを助けてやったと思ってるわけ?」


 吐き捨てて、ヘイティアは立ち上がった。面倒くさそうにぴらぴらとスフィラに手を振る。


「そんじゃまたね。アタシは暇なアンタと違って明日の朝から公爵と会食だから、もう寝なきゃ。名簿は執事にでも届けさせといて。また儀式の日に、あの埃くさい第四倉庫で会いましょ」

「ええ。よろしくお願いしますわ!」


 言ってスフィラは、ヘイティアに手を差し出した。

 胡乱げな目でその手を見て、ヘイティアは顔をしかめる。


「なに? この手。なんのために差し出してんの」

「握手のために差し出しておりますわ!」

「……。はぁー……」


 露骨に大きくため息をついて、ヘイティアはスフィラの手を握った。


「はいはいはいはいよろしくねーと。これでいい?」

「ヘイティア姉様。ひとつ聞かせてほしいのですわ!」

「……なに。明日早いって言ってるんだけど?」

「姉様はなぜ、王国イカ教会に協力してくださるのですか?」


 ヘイティアの手を握ったまま、スフィラは真っ直ぐに目の前の姉を見つめている。

 ヘイティアはスフィラの金色の瞳をにらみつけ、

 そして、少し照れくさそうに顔を横にそらした。


「……てるからよ」

「え?」

「だから! 認めてるからよ。アンタはクソダサくて生意気でいちいちムカつくけど、頭はめちゃくちゃいいってこと!」

「ヘイティア姉様」

「……だからまあ、アンタがイカが偉大な種族だって言うなら、アタシもそれを信じられる。それだけよ」

「…………」

「あとま、たまにはお姉ちゃんらしいことでもしてあげようかってとこかな。アンタのことは死ぬほど嫌いだけど……。嫌い以外のの感情も、ないわけじゃないし」


 数秒ほど、場に沈黙が流れた。

 ヘイティアもスフィラも何も言わない。やがて、先に沈黙に耐えきれなくなったのはヘイティアのほうだった。


「っ、ああもう! なんかちょっと恥ずかしいこと言っちゃったじゃない! 満足した?」

「あ……ええ」

「じゃあ手、放しなさいよ! ったく……」


 振り払うように握った手を放し、ヘイティアはため息をついた。


「スフィラ。アタシにこんなことまで言わせたんだから、絶対に成功させなさいよ。その儀式とやら」

「ええ。もちろんですわ」


 ふんっと鼻を鳴らしてヘイティアはそっぽを向く。


「……あ、あと握手したときに気付いたんだけどさ。その指輪、いつまで付けてるわけ?」


 言ってヘイティアはスフィラの右手薬指にはめられた銀色の指輪を指し示した。


「母親の形見だかなんだか知らないけど、古くさいからいい加減捨てなさいよ。アンタが勝手にダサいのは勝手だけど、アタシらアクォーク王家全体がダサいと思われたら困るじゃない」

「……ええ、そうですわね。気を付けますわ!」

「ふん。わかったならいいわ。じゃ、アタシ今度こそ寝るから」

「はい。おやすみなさいませ、ヘイティア姉様!」


 きびすを返したヘイティアはスフィラの言葉にふり向かず、手だけ振って応えた。そのまま自分の部屋に戻っていく。

 その様子はスフィラには、まるで自分の表情を見せまいとしているように思えた。





 ヘイティアが去ったあと、スフィラは水着のままでベッドの上で仰向けに寝転がっていた。もう水着は脱いで寝間着に着替えるべきだが、なんとなくそうする気力が湧かない。


「…………」


 右手を顔の上に掲げ、薬指にはめられた指輪をぼんやりと眺める。

 ヘイティアに古くさいと誹られた指輪だが、実際にかなり歴史を持つものであることは事実だ。

 

 特級魔法具『真実の指輪ラーソンリング』。

 


『だから! 認めてるからよ! アンタはクソダサくて生意気でいちいちムカつくけど、頭はめちゃくちゃいいってこと!』


 嘘だった。


『だからまあ、アンタがイカが偉大な種族だって言うなら、アタシもそれを信じられる。それだけよ』


 嘘だった。


『あとま、たまにはお姉ちゃんらしいことでもしてあげようかってとこかな。……アンタのこと嫌いだけど、他の感情もないわけじゃないし』


 嘘だった。

 全部全部、嘘だった。


「……まあ、別に。慣れっこですわ。こんなこと」


 それらしく作った表情も。

 もっともらしいストーリーも。

 そうだったらいいのにな、というスフィラの想いも。


 なにひとつ、言葉が真実であることの根拠にはならない。

 それをスフィラは、これまでの人生で嫌というほど学んでいた。


『悲しくても受け入れなさい。言ったろう。君のお母さんの死因は、間違いなく病死だよ』

『大丈夫。何があっても先生は、スフィラさんの味方ですよ』

『意外と俺、お前たち子供ひとりひとりを愛してるんだぜ。そう見えないかもしれないけどさ』


 嘘、嘘、嘘。全部嘘だった。

 この世界は嘘ばっかりだ。

 特に物語のような劇的な言葉はひとつ残らず嘘だった。状況に合わせて格好のいいセリフを言うことくらい、誰にだってできるのだ。


『――前にも言いましたが。俺の目的は魔族をすべて滅ぼして、すべての人が幸せに生きられるようにすることです』


 ……ああ、そうだった。とスフィラは思い出す。

 ひとりだけ、例外がいたんだった。


『目的を達するために犠牲が必要なことも時にはあると思います。でも俺がリスクを犯せば済む場面でそうすることが正しいとは、俺は思わない』


「……。ああ」


 スフィラの口元が少しだけ緩み、ゆるやかに息が漏れる。


「……会いたいな。ウーロ様」


 その言葉は誰に聞かれることもなく、ただ夜の寝室に溶けていった。

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