幼女戦記

「お兄お兄! どうだった? テンセートクテンの秘密、見付かった?」


 アンバーグリス領にある自宅に帰ってきたウーロに、ぱたぱたと小さな影が駆け寄ってきた。


「わ、シルピュア。相変わらず世界一かわいいね。でもまずはおかえりなさいくらい言ってほしいなぁ」

「ごめん! おかえり! で、どうだったの?」

「うん、ただいま。全然ダメだったよ、残念ながら」

「ふうん? 残念だね。お兄、テンセーシャなのにテンセートクテンだめなんだ」


 あからさまにがっかりした様子で、駆け寄ってきた銀髪の少女は肩を落とした。

 

 シルピュア・アンバーグリス。今年で九歳になるウーロの妹だ。

 ウーロが転生者であることやイカに変身できることは基本的に誰にも話していないのだが、彼女は唯一の例外だ。

 というかまあ。彼女が偶然ウーロがイカに変身した場に居合わせた以上、口止めも含めて話さざるをえなかったというのが実際のところだが。


「ま、仕方ないよ。配られたカードでやっていくしかない」

「お。なにその言い回し。かっこいい。元の世界のやつ?」

「うん」

「配られたカードでやっていくしかない、と……。よし覚えた。でさお兄、どうするの? テンセートクテンがしょぼかったなら、魔族を滅ぼすのも全部の人を幸せにするのもムリだよね?」

「……んー」

「やっぱさ。フツーにうちの領主継いで、フツーに暮らしたら? ママもそのほうが喜ぶよ」

「いや、そういうわけにはいかないよ。俺がこの世界に転生してきたことには間違いなく理由がある。それを無視してただ平穏に生きることなんてできない」

「ふーん? 大変だね、テンセーシャっていうのも。でもわたしがお兄の立場だったら、戦いなんてせずに田舎でスローライフするけどなぁ」

「はは。それも悪くないとは思うけどね」


 ウーロは苦笑して、シルピュアの銀色の髪を撫でる。

 シルピュアは嬉しそうに黒い瞳を細め、頭をウーロの掌にこすりつけてくる。犬っぽい。


「やっぱり世界一かわいいなぁ、シルピュアは」

「でしょ? わかる」

「……ま、うん。やることを変えるつもりはないよ。転生特典なんてなくてもなんとかなるさ。もともと空振る可能性は考えてたしね。むしろ問題は……」


 そこまで言って、ウーロは言葉を止めた。

 ――むしろ問題は彼女に、スフィラ・アクォーク第三十五王女にある。


 イカに変身できるという己の能力を、ウーロはこれまでひた隠しにしてきた。十年間生きてきて、この力のことを明かしたのは妹だけだ。母親であるスモナにすら秘密にしている。


 理由は簡単だ。この能力が公になれば、間違いなく殺されるから。

 剣と魔法のファンタジーなこの世界だが、いかなる魔法をもってしても人間が別の生物に姿を変えることはできないとされている。

 そしてその一方で、人間に擬態する魔族は数多く存在する。


 人間とイカのふたつの姿を取れることが発覚すれば、ウーロは『イカに変身できる人間』ではなく『人間に擬態できる魔族』と見なされるだろう。そして人類の天敵たる魔族は即刻処刑される、と王国法によって定められている。


 もしスフィラがウーロがイカの正体だと知ってしまえば、その瞬間ウーロはこの国と敵対する存在になるだろう。少なくともウーロは、そう推測していた。


「お兄、どったの? むしろ問題は?」

「……いや。なんでもないよ、シルピュア」


 ……まあ、問題はないはずだ。

 自分があの浴場を貸し切っていたことは内密にするよう頼んであるから、スフィラ王女がウーロテウティス・アンバーグリスという名前を知ることはない。もし仮に知ったとしても、そのウーロテウティスがイカに変身していたという事実に気付くことはさらに困難だ。

 あの純粋で無邪気そうな王女が、真相にたどり着くことはまずないだろう。

 そう結論づけて、微笑んだウーロはまた妹の頭を撫でた。


「ちょっと取り越し苦労をしてただけ」

「ふうん? ……うわっ! お兄お兄、虫! 虫がいる! やっつけてよ、お兄!」

「……まったく。怖がってるところも世界一かわいいけど、いい加減虫くらい触れるようになりなよ。もう九歳だろ?」

「無理! 取って!!」


 やれやれと苦笑して、ウーロは妹を怯えさせる悪い虫をひょいとつまみ上げる。


 いつまでも可能性の低いリスクに頭を悩ませているには、アンバーグリス家は少しばかり騒がしすぎた。





「こんにちはですわ、モブリオさん!」

「わ、スフィラ王女!」


 突然腰に当たった感触にモブリオは驚いて振り返る。

 美しい金色の髪に、どこか奇妙な輝きを持った紫の瞳。スフィラ・アクォーク第三十五王女が、満面の笑みでそこに立っていた。


「今日も授業をサボったみたいですね。衛兵長が怒ってましたよ」

「へへ、まさにさっき見付かって怒られてきたところですわ!」

「まったく……。相変わらずですね、スフィラ王女は。たまには真面目に授業を受けてみたらどうです?」

「言われなくても、生物学と化学は皆勤賞ですわよ? テラーチェ先生の歴史学は、わたくしの人生には必要ないのですわ!」

「はは。先生に聞かれたらまた大説教ですね」

「まあ! それは困りますわ。モブリオさん、内緒にしておいてくださいまし!」

「はいはい」


 懇願するように腕にすがりついてくるスフィラにモブリオは苦笑する。


 サボリ魔のスフィラは、王宮の家庭教師たちからも衛兵からもあまり評判が良くない。

 だが階級の低い市民を露骨に見下す王族も多い中で、いち衛兵であるモブリオ相手にもスフィラは分け隔てなく接する。

 それは幼さゆえの無邪気さによるものかもしれないが、それでもモブリオはスフィラに好感を持っていた。


「モブリオさんはもうお帰りですの?」

「ええ。資料室の施錠を確認したらあとは家に一直線ですよ」

「あら、そうですのね。……あの、モブリオさん。実はひとつお願いがあるのですわ!」

「ん。なんですか?」


 ひそひそ声になったスフィラに、モブリオは笑って首をかしげてみせる。

 どんなかわいらしいお願いが飛び出すのだろうか。そう思って顔を近付けたモブリオにスフィラは、


「……ちょっとだけ、資料室の中を見せてほしいのですわ」

「いやダメですよ」


 モブリオは即答した。

 当然だ。王宮の資料室には機密書類もいくらか収納されており、正式に申請しないと政府高官であっても閲覧は許可されない。

 いくらかわいらしくお願いされたからといって、幼い王女においそれと見せられるものではないのだ。


「……ダメですの?」

「ダメです」

「絶対に?」

「絶対ダメです」

「そうですか……」


 きっぱりと断るモブリオに、スフィラが肩を落とす。

 心は痛むが仕方ない。もしほだされて彼女を資料室に入れてそれが露見でもすれば、モブリオの首なんて簡単に飛ぶだろう。牢獄にぶち込まれてもおかしくはない。


「でもモブリオさん」

「でもじゃない。絶対に許可できません」

「でもモブリオさん、モブリオさんがこのあとどこに行くつもりなのか、奥さんに知られたくはないですわよね?」


 モブリオの体が硬直した。


「……な。え、スフィラおう、あの、なにを言ってるん、」

「ほんの少しだけでいいのですわ。月の針が二十を刻むくらいの時間でけっこうです」


 ふわりと柔らかく微笑んだスフィラの紫の瞳は、全てを引きずり込むように渦を巻いて見えた。


「資料室に入れてくれますわね、モブリオさん?」





「……ウーロテウティス・アンバーグリス」


 資料室に入ったスフィラは、ものの数分でその名前にたどり着いていた。


「イカさんがいた時間、あの浴場を使っていたはずの人。……大量の塩を持ち込んでいる? あのイカさんと関係がないはずがありませんわね」


 ほっそりとした指を唇に当てて、スフィラは思考を巡らせる。


「なんらかの理由であの場にイカさんが『歪ム世界ノ不可視ナル回廊インヴィジブル・ワームホール』で来ることを知っていて、この方はあらかじめ塩水を用意していた? ……いや、違う。前提が違うのですわ」


 かち、かち。

 壁の時計が時間を刻む。


「イカさんが共通語を知っていたのは、やはりどう考えても不自然です。……イカさんは今日以前にも共通語に接する機会があった。つまり過去の世界から直接、今日の浴場に転移してきたわけではない……」


 かち、かち。かち、かち。


「不自然なところはもうひとつありますわ。イカさんはわたくしの瞳と髪の色を聞いた。生まれてからずっと濃淡しかない世界に生きてきたなら、そんなことを気にするでしょうか? 『金色』や『紫』がどんな色なのかという質問もなかった……イカさんは、色のある世界を見たことがある?」


 かちかちかちかち。


「そしてイカさんは、おそらく人間とも接したことがある。そうでなければ『すべての人類が幸せに生きられるようにしたい』という言葉は出てこないはず。そう、だからイカさんは共通語が使えた……」


 かち。

 月の針がちょうど二十を刻んだとき、スフィラの唇は真実を見付けた喜びに震えた。


「……ウーロテウティス様。あなたが、イカさんなのですね」


 こんこん、と資料室の扉が控えめにノックされる。

 モブリオからの刻限を知らせる合図だ。


「ふふ。……ご安心くださいませ、ウーロテウティス様。あなたが自分の正体を隠したがっていることは明らか。わたくしはそれをいたずらに暴くような真似はいたしませんわ」


 にこりと微笑んだスフィラは、取り出した資料をぱたんと閉じる。


「ただ、影ながらお整えするだけですわ。あなた様の進む、その道を――」


 ウーロにも、他のいかなる人にも聞かれることなく。

 スフィラのそのひそやかな宣言は、資料室の冷たい空気に消えていった。

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