王女様とイカ

「……へえ。この世界にも、イカって存在したんだ」


アンバーグリス家の書庫で本を広げた四歳のウーロは、そんなつぶやきを漏らす。


 ウーロが読んでいるのは『古代生物図鑑』なる本だ。すでに滅んでしまって現代には存在しない生物について記載された図鑑であり、その中の数ページにどうやらイカについての記載があった。

 つまるところ。ということらしい。


「滅んだのも相当前みたいだ。伝承でしか存在を確認されていないから、実在が疑われるって書いてある。はは、面白いね。前の世界でのUMA的ポジションなんだ、こっちの世界のイカって」


 まあたしかに。硬い骨を持たず、手が十本あり、頭の下にすぐ手が付いている謎の生物だ。実物を見ることもできないなら、こんな生物の実在を信じるというのもなかなか難しいのだろう。

 そんなことを考えながら読み進めていたウーロの視線が、あるところで止まった。


『なお一部の地域においては、イカが闇魔法を使用したと取れる言い伝えが存在する。たとえば北部ギョーデイにおいては、イカに顔を近付けると突如視界が真っ暗に染まったという伝承がある。またパスタコル地方においても、捕食を回避するためにイカが黒い影を生み出して身代わりにしたという伝承がある。たしかにこれらの事象は、闇魔法である『暗転ブラックアウト』や『虚ろな影人形シャドウマリオネット』を想起させるものだ。

 これを根拠として、最古の闇魔法使いとされる『魔王』よりも先にイカが闇魔法を使用していたという説も存在する。しかしこの説は根拠に乏しく、イカが実際に存在していたとしても、上記の闇魔法に類似した事象はイカ固有の何らかの生態器官に由来するものであるという説が有力である』


「はは、トンデモ説だなぁ。やっぱりどこの世界にもあるんだね、こういうのは」


 外敵にイカスミを吐きかけて視界を奪ったり、水中に粘度の高いイカスミを吐いて自分の身代わりにしたり。それらは日本のある世界のイカたちも普通にやる自衛行動であり、闇魔法ではない。

 しかしこの世界においては、それを根拠として『イカが闇魔法を使っていた』などと大真面目に主張している人々が存在しているらしい。実物のイカを知っているウーロとしては苦笑するほかない。


「主流な説じゃないみたいだし、本当にそう信じてる人なんてほとんどいないだろうけど。でも、興味あるな」


 そうひとりつぶやいて、幼いウーロは物思いに耽る。


「この世界ではいったいどんな人なんだろう。こういう説を信じるのって」





「あの……どうしましたの? やはり『歪ム世界ノ不可視ナル回廊インヴィジブル・ワームホール』による魔力消費が大きかったのかしら。闇魔法は全系統中最強であると同時に、魔力の消費量もすさまじいと聞きますし……」


 少女……スフィラ王女が、愛らしい顔を心配げにひそめる。

 どうやら目の前にいるこの王女様は、イカが闇魔法を使えるというトンデモ説の信奉者らしい。相変わらず脳の奥がずきずきと痛むのをこらえつつ、ウーロはそう結論づけた。


「あ、それとも! わたくしの言葉がわからないのかしら? ああっ、考えてみれば当然ですわね! イカが滅びたころにはまだ共通語はありませんでしたし。だけど言葉が通じないなら、わたくしはいったいどうすれば……」

『……心配はいらない。言葉はわかる』

「まあ……!」


 『空話ウィンドスピーク』。

 空気を振動させ、任意の場所から自在に声を発生させることができる風系統の上級魔法。

 構造上人語を発声できないイカの状態で喋るためにはこれ以上ない便利な魔法だ。


「すごい……! 不思議ですわ! まるで何もない空中から声が聞こえているような……」

『まずはきみの歓迎に感謝する、スフィラ王女。君の言うとおり、俺は君たちがイカと呼ぶ種族だ』

「まあ! やはりそうでしたのね……!」


 話しながらウーロは黒い目をぎょろりと動かして確認する。

 換気用なのか、浴場のやたら高い位置に小さな窓が付いている。その窓が開いていた。どうやらこの少女はあそこから入ってきたらしい。


「わた、わたくし! ずっと信じていたのですわ! 闇魔法を操る古代の最強生物、イカが実在すること! でもまさか、この時代にお会いできるなんて……!」


 ウーロが思考を巡らせる間も、少女の言葉は止まらない。


「ああ! 退屈な授業をサボってきた甲斐がありましたわ! テラーチェ先生は嫌いなのですけれども、今日ばかりは感謝ですわね。あの人に追いかけられたおかげで、わたくしはこんなところに隠れようと思ったんですもの!」


 頭のズキズキはさらに激しさを増してきた。

 腰ほどまである浴槽の縁から身を乗り出し、少女は憧れに満ちた目でウーロを見つめている。サンタクロースを見た子供のような反応だ。


 垂れるはずのない汗が頬を伝ったような気がして、ウーロは右端の触手で頭の横をこすった。サンタさんが実はパパだとバレれば、子供の夢は壊れてしまう。では最強の古代生物が実はスミを吐けるだけの軟体動物だと知れれば、少女はどんな反応をするのだろうか?


「あ、そうですわ! イカさん、わたくしの顔は汚れていませんかしら? さっきなにかかかったみたいで……。こんな歴史的な場面ではしたない姿でしたら恥ずかしいですわ!」

『あ……いや。おそらく黒く汚れているんだと思う。すまないが、色が区別できないんだ』

「あら、そうですのね? 網膜内の錐体細胞の種類が少ないのでしょうか」

『すい……? いや、理由はわからないが。そういえば、君の瞳や髪はどんな色をしているんだい?』

「まあ! わたくしに興味を持ってくださいますのね!」


 いつまでもこうして王女との会話が続く状況は、ウーロにとって好ましくなかった。『試しに闇魔法を使ってみてください!』的な流れになる前に、なんとかスフィラを排除するつもりだ。


「目は紫色、髪は金色ですわ。本当は黒髪なのですが、お父様に無理やり染められたのです! ひどいと思いませんか?」

『それはひどいな』

「わかってくださいますか! これって児童虐待ですわよね!」


 適当な会話で場を繋ぎつつ、ウーロは注意深く魔力を操る。

 『空話ウィンドスピーク』は発動自体は難しくないが、想定通りの声色を出そうとすると一気に難度が上がる魔法だ。おまけにずきずきと激しさを増していく頭の痛みが繊細な魔力操作を妨げる。


「お父様ったら本当にカスなのですわ! 性格も悪いし頭も悪いしギャグセンスもひどいし、本当に良いところがひとつもないのです!」

『……ずいぶんと不満が溜まっているようだな』

「当然ですわ!」


 小さな拳を振り上げてスフィラは怒る。

 感情が高ぶったらしく、だいぶ声が大きくなっている。それはウーロにとって好都合だった。


「あんなのが国のトップなんて本当に不条理です! 本当に人の世というもの、は――」

『あ』


 怒りすぎてバランスを崩したらしい。

 スフィラの体がぐらりと揺れ、彼女の腰ほどまである浴槽の縁を乗り越え。

 塩水で満たされた浴槽の中に、頭から突っ込み――


「あ……ありがとうございます、ですわ」

『気を付けなさい』


 その寸前で。ウーロが水中を駆け、伸ばした触手が彼女を支えた。

 やれやれ、とウーロは内心でため息をつく。ここでスフィラに濡れられるといろいろと都合が悪い。


 ふとウーロは気付く。

 もうすでに小さな体はバランスを取り戻しているのに、スフィラがウーロから離れようとしない。どころか彼女はウーロの触手をぎゅっと握り、じっとこちらを見つめている。


『スフィラ王女?』

「……ひとつ、聞かせていただきたいのですわ」


 これまでになく真剣な表情で、スフィラは問いかける。


「イカさんはこれから、何をするおつもりですか?」

『……というと』

「今この世に、イカという種族はあなた以外にいないのですわ。いるのは人間と魔族、あなたより脆弱な存在だけ。そんな状況で、イカさん――」


 スフィラの右手にはめた指輪が、浴場の照明を反射してきらりと光った。


「あなたはいったい、何を目的に生きるのですか?」

『すべての人類が、幸せに生きられるようにしたい』


 なぜ自分がそう答えたのか、正確なところはウーロ自身にもよくわからない。

 間違いなくそれはウーロの本心ではあったのだが、この状況で適切な答えではなかった。古代から転移してきたイカがなぜか人類の幸福を願っているというのは、いかにも不自然だ。


「――あ」


 だがともかく、それを聞いたスフィラはその瞳を驚愕に見開いた。

 たっぷり十秒ほど沈黙が流れたあと、スフィラは表情を硬直させたまま口を開き――


「ご客人! 失礼する!!」


 彼女が何を言おうとしたのか、ウーロが知る機会はついになかった。

 脱衣所に通じる扉のすぐ外から衛兵と思しき声が響き、彼女の言葉を遮ったからだ。


「先ほどこの浴場から、スフィラ・アクォーク王女の声が聞こえたという報告が見張の衛兵からあった。中を確かめてもよろしいか!」

「……! もう! やけに耳ざとい衛兵がいたものですわね……!」

『スフィラ・アクォーク。君はそこの窓から逃げろ。見付かるとまずいのだろう?』

「! で、でも。イカさんも衛兵に見付かってはいけないのでは……」

『私は自分でなんとかできる』

「しかし……!」

『信用できないか?』


 ぎゅっと唇を引き結んだスフィラは大きく首を横に振る。


「ご客人! よろしいか!」

『早く行け』

「……っ! わかりましたわ!」


 スフィラが素早く身を翻し、窓に向かって走る。

 浴場の設備らしい魔法具に脚をかけてぽんぽんと駆け上がり、素早く身を躍らせる。最後に名残惜しげにウーロのほうを振り返って、そしてスフィラは浴場から姿を消した。


「ご客人! 大変失礼だが、ご返事がないようなので入らせていただく!」


 ばたんと浴場の扉が開かれ、衛兵と思しき男が駆け込んでくる。

 きょろきょろと周囲を見渡した衛兵は、はあと大きくため息をついた。


「……ご客人。いらっしゃるのであれば、返事をしていただかないと困る」

「失礼しました」


 衛兵が目撃できたのは結局、全裸のウーロテウティス・アンバーグリスだけだった。

 間一髪ではあった。彼があと数秒早く突入の判断を下していれば、窓から逃げる王女か浴槽を泳ぐイカか、そのどちらかくらいは目撃できていたことだろう。


「あの子から口止めされていたもので、つい」

「……あの子、というと」

「金色の髪に紫色の瞳をした女の子ですよ。あそこの窓から入ってきて、さっき同じところから出て行きました」

「あのおてんばめ、あんなところから……。……了解した。ご客人、お騒がせして大変失礼した」


 いや、むしろ来てくれて助かったよ。

 というのはウーロの内心だが、むろん口には出さなかった。


 なんならこの衛兵が浴場に入ってくるよう仕向けたのはウーロ自身だ。スフィラは確かに大きな声で喋っていたが、ウーロの入っている浴槽は扉からそれなりに離れている。脱衣所の外で見張に立っていた衛兵に声が漏れ届くことはなかっただろう。

 空話ウィンドスピーク。上級魔法である空話ウィンドスピークを2カ所同時に発動させるというのは今のウーロにとってそれなりに困難なことだったが、かろうじて上手く行ったらしい。


「……では私はこれで失礼する。ご客人は引き続き王家の浴場をお楽しまれよ」

「あ、いえ。俺もここらで失礼しようと思います」

「む。たしかご客人、刻限まではもう少し時間があったはずだが」

「もう十分堪能させていただきました。ちょっとのぼせてきたので、このくらいでけっこうですよ」


 実際にはまだ能力検証をしたいところではあった。

 だがいつスフィラが戻ってくるかわからないし、なによりイカ状態でいたときの頭痛が我慢できないほどになっていた。ここらで切り上げるべきだろう、とウーロは判断する。


「そうか、承知した。見張の衛兵に伝えておく」

「ああそうそう、それから。この浴槽の中の水、全部アンバーグリス領まで運んでおいてください」

「……なに?」


 塩水を自宅に持ち帰れればまた能力検証の機会があるかも知れないし、天日干しでもして塩に戻せれば料理にだって使える。

 自分の体を浸けた塩水から取った塩を料理に使うのは、元現代日本人として多少の抵抗があるが……まあいいか、とウーロは考える。塩は貴重なのだ。


「もちろん運送料はお支払いしますので、よろしくお願いしますね!」

「…………………。承知した」


 おそらく水を容器に詰め、王宮外に運び出す手間を想像したのだろう。

 思い切り顔をしかめて嫌々うなずいた衛兵に、ウーロはにっこりと微笑んでみせたのだった。

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