発射された体液が、清らかな少女の顔を汚す

びゅるるるっ!


「きゃあっ!?」


 勢いよく発射された液体が少女の顔を汚した。

 少女は顔をしかめ、垂れてきたその液体を伸ばした舌でぺろりとすくい取る。


「……ん。変な味、ですわ」


 そう言って顔をしかめた少女の顔は、やけに妖しく見えた。





 ちゃぷちゃぷ。

 アクォーク王国にある来賓用の深く広い浴槽のひとつに、今日はイカが泳いでいた。


 言うまでもなく。ウーロテウティス・アンバーグリスである。


 その姿は、ウーロが前世かつて住んでいた日本においてごく一般的に見られる種類のイカそのものだ。地方によって『シロイカ』と呼ばれたり『アカイカ』と呼ばれたりするが、『ケンサキイカ』という呼称が最も有名だろう。

 胴長……触腕を含めない体の大きさはおよそ60センチメートルほどで、この種類のイカとしてはかなり大きい。ただし、どうやら三歳でイカになったときとサイズは変わっていないようだ。


 ……以上。

 ウーロが変身した姿であるイカについて、記載すべき情報はそのくらいだ。


 ウーロにとっては非常に残念な結果ではあるが。数時間かけて検証した結果、日本に生息するケンサキイカとウーロが変身したこの姿の間に、特に違いは見当たらなかった。


(……まさかとは思うけど。本当にただ『イカに変身できる』ってだけの能力なの? これ)


 生後十年にしてはじめてのまともな能力検証。

 その検証結果は、なかなかに残酷なものだった。


(……いやまあ、うん。厳密には普通のイカとの違いはあるね。たとえば普通のイカはこうやって思考を巡らせることはできないだろうし。あと、人間の時に使えてた魔法はイカの姿でも使えるみたいだ。……でも)


 でも。

 でも、それだけだ。


 人間の時にできることができるというだけなら、わざわざ海水を用意してまでイカの姿を取る必要は一切ない。


 はぁ、と無意識にため息をつこうとするが、それすらもうまくいかない。体内に空気がないのにため息などつけるはずがないのである。


(アウゼルにはかっこいいことを言ったけど、正直期待してたんだけどなぁ。自分の中に眠る特別な力、ってやつ)


 ずきずきと脳の奥が痛むような感覚。

 それを堪えながら、ウーロは水中でひらりと身を翻した。


(……うん。脳内で愚痴ってても仕方ないね。とりあえず、もう少しだけ詳しく能力を検証してみよう。まずはイカスミの噴射についてもうちょっと実験しようかな)


 ずきずきは収まらないが、気を取り直してウーロはイカスミを噴射してみることにした。びゅるるるっ! と、鳥のようなくちばしの中から想像以上の勢いでイカスミが噴射される。


 ちょっと勢いの加減を誤ったかもしれない。その真っ黒な墨は浴槽の外に飛び出していってしまった。

 しまった、掃除が面倒だ。そんなことを考えてウーロが脳内で顔をしかめたとき……


「きゃあっ!?」


 突然浴槽の縁から顔を出して覗き込んできた少女の顔が、飛んできたイカスミを受け止めた。


(……え?)


 年の頃はウーロと同じくらい。肩の辺りまで伸びた金色の髪が、衝撃にのけぞった少女の動きに合わせてさらさらと揺れる。目鼻立ちのくっきりした、幼いながらどこか気品を感じる顔立ちだった。

 身に付けている衣服も、簡素な造りながら絹糸で作られた質の高いものだ。右手の薬指には年齢と不釣り合いな美しい指輪がはめられている。おそらくかなり身分の高い子のだのだろう、とウーロは推測した。


 人払いは頼んでおいたはず。にもかかわらず、なぜここに女の子がいるのか。

 疑問に思うウーロをよそにその少女は舌をのばし、自分の顔を垂れるイカスミをぺろりと舐め取った。


「……ん。変な味、ですわ」


 そう言って顔をしかめた少女の顔は、やけに妖しく見えた。

 そしてその直後。ウーロの姿を視界に捉えて、少女の顔がぱっと輝く。


「……っ! まあっ! あらあらあらまあまあまあ!」

(……え。なんか変な反応だな)

「し、信じられませんわ! まさか本当に……! こんなところにどうして……。ああでも、それならあいさつはわたくしの役回りに……!」

(?)


 やけに興奮している少女を見て、ウーロは存在しない眉をひそめたい欲求にかられた。いったい今どんな状況なのか、まったくわからない。彼女は誰だ。なぜここにる。俺はどう対応すればいい。


 ……少なくとも。ウーロの疑問のひとつは、すぐに解消されることになった。

 数秒間ほどのあたふたを経た少女が、スカートの裾をつまみ上げて優雅に一礼してみせる。


「っじ! ……人類を代表してご挨拶申し上げますわ。わたくしはアクォーク王国第三十五王女、スフィラ・アクォーク。最も古き闇魔法の使い立てたるイカ種族にお目にかかれたこと、光栄の極みですわ」

(……王女様? いや、というか。いまこの子、なんて言った?)

「最上級闇魔法である『歪ム世界ノ不可視ナル回廊インヴィジブル・ワームホール』を用いて、はるか古代より時空間を転移してきたんですわね? 我々人類は、あなたとの出会いを心より歓迎いたしますわ!」

(…………)


 どうやら目の前の少女の脳内で、なにかとんでもない論理の飛躍が行われたことは間違いなさそうだ。

 さて、それを踏まえて自分はいったいどう動くべきだろうか。容赦なく過ぎていく時間の中で、ウーロは素早く思考を巡らせるのだった。

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