謹慎

 大野はマッチングアプリ業者事件のあと、何も手に着かなくなっていた。仕事でもぼーっとしていることが増えたし、休みの趣味の時間でも何もしないことが増えた。特にバイクを買ったばかりで各地にツーリングへ出かけ、動画を撮影し、YouTubeに投稿していたというのにツーリング自体サボっていた。大野は食生活も乱れ始めた。今までは糖質制限をしてダイエットしていたが、それも面倒でやめてしまい、さらに自炊の回数も減って惣菜や弁当を食らう毎日になっていた。そのせいで当然のように体重が3kgほど増えてしまった。もともと太り気味だったので見た目がさらに悪くなってしまった。休みの日に何をしているかというと、YouTubeで好きなコンテンツの動画を観てはいるのだが、集中力が持たず、何も内容が入ってこない。

 

「あ、この動画前も見たっけ」

 

 といったように見た動画、見ていない動画の区別もつかなくなってきている。大好きなツーリング動画や料理動画も、むしろ見ると楽しめていない自分が可視化されて不快な気分になるようになった。だからといって外出をしなくなった大野は、YouTubeを見るくらいのことしかすることがなかった。好きなアイドルのライブも観に行く気力が湧かなかった。それほどマッチングアプリで相手が業者だったことを引きずっているのだ。

 

 あっという間に土日の休み期間は過ぎて、明日は月曜日という状況に大野は絶望している。

 

「あー、俺の人生糞じゃん」

 

 自分の人生が腐り始めていることに大野は気づきつつあった。しかし、それでもやることは変わらない。明日の出勤に備えて早めに風呂に入って寝るだけだ。何もしなかった土日を振り返る。ずーっと家にいたなあ。何かしたっけ? YouTubeで何か見た記憶はあるけど、まったく覚えていないな。それよりも明日の仕事嫌だなあ。またつまらん仕事をするのかよ。今すぐ会社辞めて死にたいな。いや会社で首吊るか。でも別に会社自体に恨みがあるわけではないしな。とにかく寝よう。明日になれば気分が良くなるはずだ、たぶん。しかし、それはあくまでも希望でそんなに都合よく気分は回復しなかった。


 月曜日になり、大野は会社で仕事をしていた。今の部署の仕事ではなく、人事課長に呼び出され人事データを編集していた。大野の今のメンタルはマッチングアプリの出来事によって崩壊していたが、仕事は真面目に行っていた。仕事を休むという選択肢は真面目な大野の中にはなかった。今までの人生においても辛いことは当然あった。


 例えば高校時代には友達が一人もおらず、高校で3年間孤立していた。しかしそれでも、学校も通うというその行為だけはあきらめることはしなかった。そのことを大野は自分で誇りに思っていた。当時のことを思い出す。仲の良かった山上とは別な高校へ行くことになり、やはり同じ高校に行っておけばよかったと思った。思えば高校での初動を間違えたのだ。変にプライドを持ったりせず、バカを演じてでも友達を一人でも作ればよかった。高校の3年間はずっと辛かった。最初に話しかけてくれた野球好きに男と仲良くしておけばよかった。自分の笑いのセンスなんてかなぐり捨てて、馬鹿みたいに笑っていればよかったんだ。楽しかった中学時代の夢を何度も見た。今は過去に戻ってやり直したいとすら思う。だがそれでも、今のこのつまらない会社でつまらない仕事を続けている自分というのは急に変えることはできない。

 

「大野君、ごめんね。別部署なのに」

「いやー、私くらいしかわからないことですから」

 

 大野はイライラしていた。なんで、こんな簡単なことすらできないんだ。バカの集まりか、この会社は、と。引継ぎくらいちゃんとやらせろよ。こんな関係ない仕事をやらせるな、給料を今の50倍くれ。中学時代の担任の平山も合唱コンクールの練習と称して、意味がない練習をクラス全員にやらせていたことを思い出す。大野はやりたくないと言って、結局練習には参加しなかったが、あのことはいまだに根に持っているぞ、平山。だいたいなんで合唱コンクールなんてものが存在するんだ、お笑いコンテストでもいいじゃないか。それだったら俺は優勝する自信があるぞ。あの頃の俺はビンビンにとがっていたから、万人受けはしなかっただろうが、絶対に優勝できた。山上のことだって度肝を抜かすことができたはずだ。山上、やはりあいつは嫌いだ。上から目線で彼女でも作ればとか言ってくるし、マッチングアプリを始めたら業者に引っかかるし、全部山上、あの男のせいで人生が狂ったんだ。出会わなければよかったんだ。あいつが小学生のときに転入してきて、それで仲良くなって、いっぱい遊んだな。野球やったり、山上が必ず勝つテレビゲームをやったり、楽しかったのは認めるがあいつがいたから俺は敗北を知ったんだ。敗北を知らなければ俺は純粋にまっすぐ成長できたはずだ。純粋に成長していれば俺は今頃お笑い芸人になって、日本中のバカな人間たちを笑わせていたはずだ。山上は相方にして、バカにしていじってやってもいいな。とにかく俺はどこの誰よりもお笑いのセンスがあるんだから、こんなところでくすぶっている人間であって良いはずないんだ。

 

 グチグチ心の中で文句を言っていると、思わず変なところをクリックしてしまったことに気づかない。そのまま、警告画面も別な実行画面の物だと思い、承認してしまう。全社員の人事データが、飛んだ。

 

「あ」

 

 そう思ったときにはもう遅い。飛んだデータは返ってこない。大野の頭の中も、飛んだ。何が起きたんだ。俺はただ過去の栄光を思い返しながら、つまらない仕事をこなしていただけで、何も間違ったことはしていないはずなんだ。そう、思えばだいたい、今までの人生でいい人間なんて一人もいなかった。親、兄弟など家族を含めても俺には物足りない人間の集まりだった。俺が世界で一番優れている人間であり、俺以外の人間は俺に利用されるために存在している雑魚どもなんだ。俺が間違うわけない。そうだ、俺は間違った人生なんて歩んでいない。俺はナンバーワンなんだ。

 

「あああ」

 

 大野は唖然とした。俺は間違いを起こしてしまったのか。そんなわけないよな。ちょっと操作を誤っただけで、データが飛ぶなんて構造が悪いんだ。俺は何も悪くない。俺の人生で俺が悪かったことなんて何一つなかった。中学時代の亀井や山上をいじってあげて文句を言われたことだって、俺がせっかくいじってあげたんだから感謝するべきだったんだ。なのにあいつら文句ばかり言って俺に感謝なんてしやしなかった。この世界一面白い俺がいじってやったのにだ。とにかくこんなミスをこの俺がするわけない。そう思いながら後ろを振り返ると、すべてを見ていた人事課長が言う。

 

「ちょっと! 大野君、なにをしたんだ!?」

 

 人事課長にも、事の重大さが伝わってしまった。俺が、俺が、この俺がこんなことをやらかしてしまうなんて。大野は絶望した。今までの人生いいことなかったな、ずっとついてない人生じゃないか。もう終わってもいいかもな。でもまだ、セックスしたことないし、キスもしたことない。そんな経験なしで死ぬのも嫌だな。山上はどちらも経験しているというのに、俺は、なんでこんなにみじめで情けないんだ。悲しい、俺はとても悲しい。何者にもなれない人生なのか、俺の人生は。いや、これからやり直していけるはずだ。だって俺は、俺は天才なのだから。でも、目の前の問題はどうしよう。こんなの笑いにはならないし、俺をもってしても何事にもならないぞ。どうしよう、どうしよう。そう思った大野はこんな反応しかできなかった。

 

「いやぁ……あはは」

 

 笑うしかない大野。人事課長が大野の触っていたPCをチェックする。人事課長はすべてを察し、鬼とも見間違うような表情で言った。

 

「全社員の人事データ飛ばすなんでただ事じゃないよ! 笑うな!」

 

 大野は怒られながら、めんどくせーなと考えていた。そもそも関係ない俺にやらせたのが悪いんだろと考え始める。そうだ、俺は悪くない。この人事課長が悪い、その思いしか大野の中には巡っていなかった。そうだ、この元俺の上司であるこいつがすべて悪い。中学時代の担任平山も意味不明なことばかり言っていた。こいつも意味わからんし、平山2号だな。平山2号、掃除でもしてろ。お前には掃除夫がお似合いの仕事だ。中学時代も掃除だるかったな。俺はそんなの用務員にでも任せればいいのに、なんで生徒にやらせるんだ。非効率で前時代的だ。俺が総理大臣になったらそこから改善するね。教員の負担軽減も協力してやりたいし、俺は総理大臣の才能もあるかもしれない。そう考えるとなんで俺は今こんな会社にいるんだろうな。まったくもって理由が分からない。なんで俺はくすぶっているんだ。こんな、こんな、こんなことをやりたい人生なのか、俺の人生は。

 

「とにかく、この件は君のところの部長も呼んで、話し合おう」

 

 大野はクビになるかもなーとぼんやり考え始めていた。


 部長と人事課長と大野の三者面談が始まる。しかし、大野は自分には関係ないとばかりにそっぽを向いている。俺は絶対に悪くない。その気持ちだけでこの場所に存在している。だいたい何なんだ、この面談は。俺がいる意味が分からない。人事課長とこの部長だけでいいだろ。俺に仕事を振った人事課長が悪いし、部長も俺に仕事を振ることを許可したのも悪い。俺に落ち度は一切ない。なんでこんな無駄な時間を作るんだ。他の有意義な仕事をさせてくれ。ここであんまりな言われようだったらこんな会社辞めてやろうか。それでもいいかもな。下らん会社の下らん仕事なんだから、この俺がやる必要なんてない。俺は本当にこんなところでつまらん仕事をするべき人材じゃないのに。この馬鹿どもはなんでこんな会社で偉ぶってるんだろうな。程度が低いからこんなところでしか威張れないのか。あー、そうか、それなら納得だ。さっさと俺に踏み台にされて消えちまえ。この会社ごとな。消え失せろ。そんなことを思っていると、部長が切り出す。

 

「大野君、悪かった。君には大きな負荷をかけてしまっていたみたいだね」

 

 大野は思う。負荷? お前らが押し付けてきた負荷のことか? 無能の烏合の衆だからこの俺を頼ってきたのは評価できるが、責任を擦り付けてくるのはやめてもらえませんかねえ。本当にダメな奴らのダメ会社だな。この俺がこの会社のトップになったら真っ先にお前らを解雇するね。それくらいお前らはダメな奴らだよ。この俺に指図するのは今すぐやめて田舎に帰って頑張ってください。お別れの挨拶くらいはしてやるよ。バイバイさよなら。もう二度と会わない日まで。とにかく俺にそんな無責任なことを言うのはやめろ。人事課長が続ける。

 

「そう、私たちにも責任があるから、今回のことは仕方ない。でも復旧作業は協力してね」

 

 大野ははっきりとイラっとしてしまった。心の中で悪態をついた。ふざけるなよ。協力? お前らはこの俺に少しでも協力したことがあるのか? ないだろ。なんでお前らのような非協力的な人間たちに俺が協力してなにかをしなくちゃならないんだ? なめるな。俺は、この大野友樹は、お前らなんていつでも殺すことができるんだ。そんな俺に向かってそんなくだらなくて反吐が出そうな言葉を吐くんじゃねえ。復旧作業とか言ったが、お前らが頑張れ。困ったら助けてやってもいい。とにかくまずはお前らがやれ。話はそれからだ。この俺の手を煩わせるなんて百年早いわ。その言葉、考えは思ったが最後、口から出てしまった。

 

「いや、お前らが百悪いんだから仕方ないじゃねーよ。復旧作業なんてやるわけないだろ! だいたい何なんだ。お前らあほかよ! 無関係の俺にやらせる仕事じゃないだろ! お前らが俺に責任を擦り付けてくるからこうなったんだ。俺に指図するなら順序立てて丁寧にやれよ! こんなことになったのはお前らのせいだ。俺は絶対に悪くないし、お前らだけで復旧作業とやらをやれよ。俺に助けを求めるな。まあ、この俺が天才だからすがる気持ちも分かるが、バカなお前らだけでできるようにならないと、この先この会社困っちゃうんじゃないですか? 俺の言ってる意味が分かるか? 馬鹿ども。だいたい派遣でこの会社にいたときから思っていたんだ。この会社ほんと杜撰だよな。派遣に見せてはならないデータを平気で見せるし、管理が甘いんだよ。教育系のIT会社なのにそこが杜撰だったら一番まずいんじゃないですか? 本当にお前らは烏合の衆だな!」

 

 言ったが最後、空気は激変する。

 

「おい、大野! こっちが下手にでれば大きく出やがって! もういい! お前は1か月自宅謹慎だ!」

 

 大野は自宅謹慎となってしまった。

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